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20世紀世界文学への「葬送」

菅野昭正『小説と映像の世紀』(書評、『週刊読書人』8月20日号)

ステファヌ・マラルメ研究で世に知られ、現代フランス文学の翻訳に携わる傍ら、文芸時評家として現代日本文学の壮大なクロニクルを編んだ菅野昭正の新たな挑戦、渾身の一冊である。ひと言で、小説と映画という異ジャンル間の自在な往来を介し、双方のジャンルの可能性を賦活させる試みと定義できる。

小説と映画の、いわば幸せな「分身」モデルに選ばれたのは、トーマス・マン(『ヴェネツィアに死す』)からウンベルト・エーコ(『薔薇の名前』)にいたる十二作品。いずれも、二十世紀の世界文学を彩る古典中の古典である。小説に魅了され映画作家は、その魅了をいかに創造的に再現したか? 映像は、小説へのみずからの「羨望」を癒そうとするプロセスで、何を得、何を失ったか。また、逆に小説は、映画の「羨望」のまなざしからどうみずからを守ったか。著者は、時として「分身」間の優劣の審判者として怜悧な判断を下す。倫理的偏見から解放された鑑識眼の確かさこそが、まさに本書の価値を裏付ける証となる。

方法の基盤をなしているのは、小説と映像双方の「テクスト」の徹底した読みと細部の比較検討である。この作業がとりわけ困難なのは、未読、未見の読者を念頭に置きつつ、「分身」同士の違いを明らかにする、精緻を尽くした再現が求められることだ。そこで大いにものを言うのが、マラルメ研究者としての、文芸時評家としての知見と筆力である。私たち読者は、未読が既読へ、未見が既見へと変容する疑似経験のプロセスを安心して堪能することができる。いや、まさにそのためにこそ、本書は書かれたといっても過言ではない。

第一章、トーマス・マン/ヴィスコンティ『ヴェネツィアに死す』論で著者は、「目覚めの遅い」二十世紀初頭の「多面体」としての世界をパノラマのように描き出し、本書全体のプロローグ的な性格をこの章に与える。主人公アッシェンバッハにとって「美の極致」であった少年が性の欲望へと転化するプロセスに、著者は、「いましも新しく出現しようとする時代」の到来を見る。第二章、カフカ/ウェルズ『審判』では、ウェルズが、カフカの語彙にはなかった「不条理」という語彙を敢えて拾い出し、監視社会の到来をイメージとして取りこんだ先見性に着目する。思うに、そこに見るのも、まさに新たに出現する時代の予感である。それと同じ文脈が、ドリュ/ルイ・マルの『ゆらめく炎』(『鬼火』)にも表れるが、ここでは、第一次大戦後のパリに設定された原作が、冷戦構造にからめとられた一九五〇、六〇年代の「不安や焦燥」を映し出す鏡となる。このように映像作家は、小説の映像化にあたって、小説の内部に隠された未来の種子を探り当てることで、自らが生きる時代の証言としてきた。

取り上げられた十二の作品中、個人的にもっとも深い愉悦を経験できたのが、デュラス/アノー『ラ・マン』論。メコンの川べりでの光景を描く有名な冒頭シーンの記述を読むうち、かつて映画館で経験した切ない臨場感が蘇ってきた。アノーは、原作からの逸脱を恐れず性愛の描写に力を傾けるが、支配/被支配の深層構造をその細部に浮き上がらせる手腕を著者は高く評価する(「かなりの程度、映画は原作を凌駕している」)。他方、小説と映画との間に生じる、一種の掛け合いにも似たズレの構造を解き明かしながら、小説がはらむ思いがけない「矛盾」をも明らかにする。この「矛盾」に関連して指摘しておきたいのは、小説ジャンルの地道さである。往々にして「メロドラマ」へとなだれ込みがちな映画と異なり、小説は、散文的な現実(「防波堤の払下げの土地」をめぐる不首尾)にも根気よく付き合っていく。このあたりの事情に対する目配りは、文学者としての著者の公正なバランス感覚を示唆するものだろう。

個人的な趣味を離れ、本書の読みどころとして第一に推したいのが、最終章のエーコ/アノー『薔薇の名前』論。山中にそびえ立つ修道院内での連続殺人事件を解説する手さばき、物語の背後に広がる教権と世俗権力との軋轢という歴史的背景の説明、あるいは、原作のもつ間テクスト的性格(「数多くの書物の物語」)への言及、翻って一九七〇年代にイタリアで起きた「赤い旅団」と作品の関係をめぐる記述など、それ自体が、この小説をめぐるメタミステリーの謎解きの観を示している。この「背景」の問題は、映像がけっして足を踏み込むことのできない「羨望」の領域といってよい。

  最後にひと言正直に述べておきたい。

本書を手に、ときにノスタルジックな思いにかられつつ、ある種の感慨を禁じえなかった。端的に言おう。本書は、二十世紀芸術文化の終わりを見送る葬送の書である。今後、確実に「未読」で「未見」の「テクスト」となるべき運命にある十二の「小説と映画」を、次の世代にまで繋ぎとめるために、私たちにできることは何か。今こそ、この問題に立ち止まることなく、いかなる人文学の未来も語れないような気がする。

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