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深い衝撃、または世界が終わる夢を見る




人間というのは生きられるものなのだ! 人間はどんなことにでも慣れることのできる存在だ  ―ドストエフスキー


二〇一一年三月、私たちの日本で、もはや決して慣れることを許さない事態が起こった。慣れようにも慣れることのできない恐ろしい災厄――。この、未曾有の恐ろしい事態をまのあたりにして、私たちは今もなお呆然とし、自信を失い、未来に不安を感じている。しかしその傍らで、生きて、ある、ということのかけがえのない意味に目覚め、生命の「奇跡」に触れた人々も少なくないはずである。では、はたして生命そのものを、無条件に「奇跡」と呼ぶことができるのだろうか。

呼びえないし、生命は、それ自体ではけっして「奇跡」ではない。

生命は、その規則的な営みの内に、深く豊かに「歓び」を感じるぬくもりを帯びてはじめて、生きた命としての価値をもつ。「歓び」を経験できる心がなければ、私たちの傍らで傷つき、苦しむ人たちとの豊かな「共苦」の心も生まれない。なぜなら、「歓び」こそは、もっとも私たちの心のもっとも深い部分での震えを意味するからだ。

 幸運にして生き残ることを許された私たちの責務とは、「けっして慣れない」という態度である。それは、生きのびた人間にとっての決意であると同時に務めであり、試練でもある。そして私たちの生命が、つねに社会の現実との生きた「交感」を保ち、ともに生きる「歓び」を感じつづけていくには、「歓び」の泉が枯れるという事態を何としても回避しなければならない。大きな災厄の時代だからこそ、私たちの一人ひとりが、豊かな「歓び」の発見に努め、魂に確実な潤いを待ち続けなくてはならないのだ。

 私の記憶をよぎるエピソードがある。

 今からおよそ一〇年前のこと。一人のロシア人作家を成田空港に迎えた。都心に向かうポートライナーの車窓をのぞきながら、作家は、吃音の混じるやわらかい声で私にいきなりこう問いかけてきた。

「ツナミが見たい、どうすれば見られる?」

 一瞬、訝しい思いに打たれ、私は彼の顔を見上げた。

「ツナミはいつでも見られるっていうものじゃありません、どうしても見たいのなら、NHKのアーカイブ室を紹介しましょう。でも、きっと、期待するような映像は残っていないと思います。そういえば、最近、『ディープインパクト』という映画を見ましたが、凄かった。よかったら、ツナミはそれで見ることもできるのですが」。

「その映画は、三年前にウィーンで見ました」

 それから半年過ぎた一〇月、神戸のある大学に講演者として招かれた日の夜に、私はその作家と、ポートアイランドのホテルでビールグラスを傾けながら語り合った。

「ずっと聞きたいと思っていたのだけれど、あなたが成田に着いた日、電車のなかで言っていた『ツナミが見たい』って言葉、あれはどういう意味ですか?」

 直接の答えはなかった。その代わりに、彼は、自分の吃音がはじまるきっかけとなった幼少時の記憶について語りはじめた。語り終えると、彼は、呟くように言った。

「トラウマを持たない文学なんて存在しない」――。

 作家の名前は、敢えて明かさない。

 三・一一からひと月ほど経ったある朝、YouTubeで深夜遅くまで津波の映像を見続けたせいか、明け方、大洪水で自分の家が押し流される夢を見た。それからまたひと月ほどして、今度は、私自身が泥まみれになって、まるで宝探しの気分で瓦磯のなかを漁っている夢を見た。どうやら、大震災との「シンクロ」が、いや、ツナミの「現前化」が、今まだ続いているらしかった。新宿のレストランで食事中、有楽町国際フォーラムでの「ラフォルジュネ」音楽祭のコンサート会場で「現前化」が起こった。深夜、入浴中には、あの地震が真夜中に起こったら、このうえどれだけ多くの命が犠牲になったことか、とまで空想した(その場合、ツナミの映像もこれほど多く私たちの目に触れることはなかったにちがいない)。やがて私は、光景の「現前化」が、ある周期性をもって訪れてくることに気づいた。われを忘れて何かに没頭しているとき、まるで不意打ちを食らわせようと狙いさだめたかのようにそれは襲ってくる。そしてこの「現前化」には、フロイトに通じる何かが隠されていることがうすうすと予感された。

 震災直後、私は、運命の何たるかを一つの手触りとして感じるとともに、自分たちがいま、神話的ともいうべき試練の時を生きているのだ、という感慨を持つにいたった。執拗にヒステリックに集中攻撃をしかけてくる地震に、自然の獰猛な悪意すら感じ、その悪意の前で、逆に自分が身に覚えのない罪意識にさいなまれている自分に気づく。旧約聖書のノアの洪水への連想にはじまり、東北に住む人々の苦しみを、「ヨブ記」のヨブに重ねあわせていた。だが、キリスト教の信仰をもたない私が、あれはどの災厄のあとでさえヨブのように真摯な祈りをもちつづけることは不可能だった。それにしても、神をではなく、自然を憎むという感覚が消えるまでどれほど時間がかかるのか。つい先日、漁を再開した三陸沿岸の人々の明るい表情をテレビで見たが、彼らは海を、それこそ生みの親のように愛していることを知った。ヨブと同じで、彼らは、災いを憎んでも、海を憎むことはしない。

 そうしておよそ二ヶ月が過ぎたある日、私の脳裏に思いがけず一つの疑問が浮かびあがった。「三月一一日二時四六分」は、いつ、どの時点で定められたものだったのか、という疑問である。だれかが、この日のこの時刻に大地震が起こり、その三〇分後には大津波が押し寄せ、多くの人々が犠牲となることを知っていたのではないか。私の目は、おのずから自然の景色に向かう。この雲の動きは、偶然か、運命か。この風のそよぎは、偶然か、運命か。すべての現象に、偶然と運命をめぐる問いが付随するようになったのだ。ことによるとそれは、一種の神的体験に近いものだったかもしれない。かりにもし、大地震が、八六九年の貞観地震の際にすでに運命づけられていたとしたら、そしてその貞観地震もまた、さらに1000年前の大地震によって運命づけられていたとしたら、三、一一の災厄も、結局のところは、宇宙という恐ろしく巨大な「予定調和」のなかの一コマにすぎなくなる。他方、現象の限りない多様性のなかに、確実な答えを見出そうとする地震予知学など、遺伝子治療や分子生物学と同様に、一種の運命学にほかならなくなる。大震災とは、つまり神が支配する領域に一歩一歩近づこうとする人間たちに対する警告、「近づくな」のサインなのかもしれない。もし、私がキリスト教の神を信じていたら、この災厄すら、神が定めた掟、定めと感じたかもしれない。あるいは、「予定調和」の宇宙を構成するモナドとさえ―。

 三月一一日以降、私は自分のすべての行為にいつにもまして罪の存在を感じるようになった。この罪の感覚は、私がフロイト的と呼ぶ何かである。けれど、自分を律しようという思いは起こらなかった。むしろそれとは逆に、一口のワイン、ひとかけらのサンドイッチにも歓びを見いださなくてはならないとさえ感じるようになった。そんなある日、私はふと、ウェブ上にアレクサンドル・プーシキンの戯曲『ペスト蔓延下の宴』のテクストを求めた。遠い学生時代に読んだ作品だけに、内容はうろ覚えだったが、恐ろしくデカダン的気配を含んだ作品という記憶があった。タイトルそのものが物語の中身であるような作品なので、今改めて詳しく書くことはしないが、読み返してみて、それがデカダンではないことを知った。それよりむしろ死の絶対性を前にした生命の賛美―。

 では、かりに現代にドストエフスキーが生きていたとして、彼はこの災厄の後にどんな作品を書くことができたろうか。彼が、同時代人として経験できた災厄は、知られるかぎりクリミヤ戦争しかない。しかしその彼にも、それに匹敵する個人的な体験があった。その経験のなかで彼はこう記した。

 「人間はどんなことにでも慣れることのできる存在だ」。

 だが、ドストエフスキーがこのとき手にしていた発見とは、「どんな苦しみにも慣れることのできる」人間の強さ、逞しさだった。そしてそれは、あくまでも、苦しみを受ける立場から生まれた苦しみの言葉だった。青年時代、ユートピア社会主義にかぶれ、国家反逆罪の罪を問われ、死刑場にいちどは立たされた彼の脳裏を、福音書の次の言葉がよぎらなかったという保証はない。

「神よ、神よ、なぜ、わかしを見捨てるのか」。

 これは、ゴルゴタの丘でのキリストの叫びであるとともに、死刑場でのドストエフスキーの叫びであり、やがてそれは、無実の罪で苦しみを受けるすべての子どもの悲鳴に変わった。『カラマーゾフの兄弟』に登場するイワン・カラマーゾフはこう主張する。

「人はみな、永遠の調和を苦しみであがなうために苦しまなければならないとしたら、子どもはそれにどう関係する、どうだ、ひとつ答えてくれ? なぜ子どもたちは苦しまなくちゃならなかったのか、なんのために子どもたちが苦しみ、調和をあがなう必要などあるのか、まるきりわかんないじゃないか」(『カラマーゾフの兄弟』第二部第五編「プロとコントラ」)。

 読者に思いだしていただかなくてはならない。この右の引用文が、そもそもどこに起源を置くかということだ。答えだけを記しておこう。ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』の執筆にあたって次のような目標に立てた。

「ロシアの『カンディード』を書く」。

 フランスの啓蒙思想家でロシアとも縁の深いヴォルテールが『カンディード』を著わしたのは、一七五九年。小説の冒頭には、「この最善なる可能世界においては、あらゆる物事は最善である」という基本メッセージが掲げられている。だが、この一節に集約された哲学者パングロスが唱える「万物調和」の哲学は、主人公カンディードが見聞・経験する不幸や災厄によって劇的に尽き崩されてしまう。思えば、この『カンディード』こそは、この小説の執筆に先立つ四年前の一七五五年、ポルトガル・リスボンで起きた大震災の衝撃から生れたものだとされている。

 震源地は、サン・ヴィンセンテ岬の西南西二百キロ。推定マグニチュード8.5~9.犠牲者の数は、津波による死者一万人を含む約六万人――。

 何という符号だろうか。リスボンを訪れたパングロス博士とカンディードを大地震が襲う。

「たちまち足元で大地が揺れるのを感じた。港の海水は泡立って高く盛り上がり、停泊中の船を砕くのだった。炎と灰の渦が町の通りや広場を覆いつくし、家々は崩れ落ち、屋根は建物の土台のところにまで倒壊し、土台は散乱し、三万人の老若男女の住民が廃墟の下敷になってつぶされる」

 そこでパングロス博士は叫ぶ。

「この現象の充足理由は、いったい何だろう」

 それに対してカンディードは、こう答えるのだ。

「これこそ世界の最後の日です」と。

『カラマーゾフの兄弟』誕生の起源には、大地震という遺伝子が埋め込まれていたのだ。翻って、ドストエフスキーがこの東日本大震災ののちに書きえた小説は『カラマーゾフの兄弟』に他ならない、という結論もここに一つおのずから導き出されてくる。

 大震災から二ヶ月間、私は、読書に手を伸ばす余裕を持たなかったが、つねに脳裏に輝きつづけていた本が何冊かある。それらは、私の人生に確実な潤いをもたらし、それぞれの段階において確実に重要な意味を待った本ばかりである。何よりもそれは、私自身が幸せにもその翻訳者となった『カラマーゾフの兄弟』。幼いころから、世界全体に襲いかかる圧倒的な力、フロイトのいう「世界没落体験」にととりつかれ、深い無力感と戦ってきた私か、ある意味で、生命そのものへの信仰を取りもどすきっかけとなった小説と呼んでもよい。他者の苦しみに、罪なき子どもの涙に限りなく寄り添い、決してそれを忘れないという、祈りにも似た心がなければ、「カラマーゾフ、万歳」のシュプレヒコールがあれほどの深い陶酔に満たされることはけっしてなかったろう。



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