ヨハン・セバスチャン・バッハの音楽が、人生の新たな道連れとなりそうな予感がする。きっかけは、3年前、知人に推奨され、半信半疑で買い求めたCD55枚入りの教会カンタータ全集。
マラソンにも似た長丁場になると覚悟し、朝のストレッチ体操の際に聴くと決めた。が、7、8枚まできたところで息切れがして、瞬く間に三年が過ぎてしまった。
この夏、部屋の模様替えついでに改めてその内の一枚を聴き直してみた。BWV147番。するとそこで小さな奇跡が起こった。スピーカーから流れ出したバロックトランペットの明るい響きと女性合唱の見事なハーモニーに体じゅうの血が騒ぎだしたのだ。どうやら三年前の短い出会いが、記憶の熟成を生んでいたらしい。しかも、そんな私の好みを察知したAIが、youtubeからのプレゼントまで届けてくれた。スイスの教会で収録されたバッハ財団による瑞々しい演奏と映像である。
それにしても不思議だ。信仰とは何の縁もないはずの私が、どの楽曲に接しても、たちまち愛着が湧く。これこそ老いの賜物というべきか。
こうして喜びに満ちた日々が流れ過ぎていった。
ところが先日、そんな快美感に冷や水をかけられるようなインタビュー記事に接した。近い将来、人類の多くは、AIなど先進科学を制した一握りの人間の支配のもとで「無用者階級」に堕するという。まさに新たな全体主義の到来である。
「ユースレス」の一言が痛く響いた。同時に私の中に一つの連想が起こった。ロシアの作家ドストエフスキーが、登場人物の一人に語らせた世界観のことだ。社会主義を成しとげた暁に人類は、二つの不均等なグループに分割され、少数の知的優位者が、多数の知的劣等者を支配する。知的劣等者は、幾世代かを経たのち、家畜の群れのごとき原始的な天真爛漫さに至る、という。この怪奇な予言が、グローバル化時代に現出しようとしているらしい。
だが、不安は一瞬のうちに去った。今の私に言わせると「無用者階級」、大歓迎。たとえ無用者でも、携帯電話の利用ぐらいは許されるはずだ。でないとAI社会そのものが成り立たない。一方に、不老不死まで手に入れようとする優位者がいる。それも結構。われら天真爛漫組は、そんな少数者の驕りを尻目に、人生を謳歌する。ただし、「教養」などという生ぬるい代物ではだめだ。AIの猪突盲信に抗するには、「狂気」を、いや、強い情熱を手に入れなければならない。ここでいう情熱とは、むろん芸術への愛。
私が今、聴き始めているのは、BWV十二番。えもいわれぬ悲しみの表現があり、ひたすら従順であれ、とのメッセージが聴こえる。目の前に鎮座するCD55枚入りのボックスは、今後十年分の備蓄。「人生百年」を終えるまでにさらに二十年。AIがひそかに送りつけるYoutubeからの招待メールも大歓迎である。
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