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BWV639

更新日:2019年9月20日

 折にふれてノスタルジックな喜びを掻き立ててくれる記憶があるとしたら、それは、その記憶に書き込まれた「物語」が未完であることを暗示するものだ。終わりを確認することなく、味わいつくすことのなかった何かを、もう一度経験し直せたら、どんなにすばらしいか。その思いは、年を重ねるごとに切実さを増していくような気がする。音楽や芸術における経験もまた、そうした人生上の体験と大きくは変わらず、ノスタルジーはその意味で、過去の記憶との再会への誘いと定義できるのかもしれない。

 私は今、そんな密やかな喜びとの再会をもとめて、記憶の底に垂鉛を下ろそうとしている。おまえの過去に、その記憶にまつわる心のふるえ(そう、ここでは断じて「アウラ」という言葉を用いたい)が失われたら、とうてい生きてはいけないと思える経験はなかったのか、と。

 思いがけない深さに驚かされる。

 この数日、私の頭から離れようとしないバッハのコラール前奏曲「われ、汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」(BWV 639)がよき道案内、いや垂鉛となった。何のきっかけでこの旋律が私にとり憑いたか、今もって説明できない。だが、確実にわかっていることがある。ブゾーニ編によるこの曲を弾いているのが、アメリカ生まれのピアニスト、マレイ・ペライアであること。そしてこの曲が、20代後半から30代前半にまたがるバッハの、比較的若い時代の作品であるということ。だが、この旋律がしきりに導こうとしていた世界は、これらの事実からかなり隔たった地点に立ち現れた。今から約40年前、当時、話題だったアンドレイ・タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」を通して、私はこの旋律と出合っていた。場所は、東京・渋谷。電子音楽による厳かな旋律に重ねて、冒頭のタイトルシーンが映し出された。

 複雑な知性をもつと思われ、人類が過去何世紀にもわたって接触を試みてきた惑星ソラリス。そのソラリスを探査する宇宙ステーション内に異変が生じて、心理学者のクリスが調査のために送り込まれてくる。到着早々、彼は、科学者のほかにだれもいるはずのないステーション内に奇妙な「人影」を見かけて慄然とするが、謎は意外にも早く解明される。ソラリスをおおう「海」には、人間の無意識に埋もれた一部の記憶を物質化する特殊な力があるらしく、眠りから覚めたクリスの前に突如、かつて十年前に自殺した妻ハリーがそのままの肉体をまとって蘇るのだ。

喜びと不安が入り混じるなか、二人は悲しい逢瀬を重ねていくが、記憶のコピーにすぎないはずのハリーはすみやかに人を愛するすべを学び、しかもその愛には徐々に狂気の色合いがにじみはじめる。一方、ハリーへの新たな愛に目覚めたクリスだが、彼の心には、当然のように葛藤が生じて、彼がかつて遭遇した悲劇の謎が明らかにされていく。

BWV639の旋律が二度目に現れるのは、第二部の後半、ブリューゲル「雪中の狩人」の掛かるラウンジ内でのシーン。ステーション内に定期的に訪れる無重力状態のなかで、クリスとハリーはつかの間、至福に似た安らぎのときを過ごす。しかしまもなく音楽は暴力的に断ち切られて、液体酸素を口にして自殺したハリーのなまなましい死体が大写しになる。衝撃的なモンタージュである。だが、むろんそれによってもハリーの再生が止まることはない。自己犠牲を果たすことなくにわかに復活しはじめたハリーの姿を見て、同僚の科学者は吐き捨てるように言う。

「薄気味悪い光景だ」

 BWV639の三度目の使用は、故郷に舞い戻った主人公クリスが池のほとりに立ち尽くすシーンである。ここでのバッハは、もはや無重力状態での安らぎといったものからかけ離れ、何かしら寒々とした予感に満たされている。池のほとりから戻ったクリスが窓越しに外から室内をのぞきこむと、降りしきる雨に打たれながら父親が粛々と本の整理にいそしんでいる。世界の内と外が完全に捻れていることの暗示である。カメラはそこから限りない高みへと吸い上げられ、クリスの家もついにスクリーン全体に広がるソラリスの海にすっぽり呑み込まれていく。

 月並みながら、私の頭にある仮説が浮かんで来る。

 ソラリスの海とは、神なき共産主義の世界において、タルコフスキーが唯一具体的に創造しえた神の世界の表象だったのではないか。1970年代初め、当時40歳の彼は、後に「信仰」という言葉で手繰り寄せる計り知れず深い経験のとば口にあった。にもかかわらず、信仰という言葉をじかに口にはできずに彼は、バッハの音楽に託してその敬虔な思いを吐露せざるを得なかった。そこに、純粋現実として宇宙を見つめようとする原作者スタニスラフ・レムとの対立の原因がきざした。

 この広漠とした宇宙にあって、限りなくゼロに近い人間の生という思いほど耐えがたいものはない。タルコフスキーにあってその思いは年々強くなり、他方、現世と神の世界をつなぐアウラの架け橋としてのバッハへの傾倒が深まった。神という、慈悲に見いた全体の「海」に包まれながら、人間としてのアイデンティティを得る。芸術の役割もそこにある。しかしかりにその最高のアイデンティティが自己犠牲にあるとしたら、それは、神からの「授かりもの」の命という掟とどう調和するのだろうか。

 BWV639は、その深い息遣いのなかに、クリスとハリーの自己犠牲の苦しみを癒し、諦めと神への恭順を説くかのようである。切ないほどの思いのこもるアウラへの憧れ。このアウラへの祈りが失われるとき、芸術そのものが死ぬと、タルコフスキーは真剣に考えていたが、その彼が恐れつづけた芸術の死は、思いもかけず早く訪れた。

 今もなお、私の頭の中ではバッハが鳴り響いている。いつの日かこの旋律からアウラを失われ、青白く乾いた響きに変じるときが来る。それが宿命である。かりにもしあの心のふるえが感じられなくなったら、という切迫した思いも薄れて、別の希望が生まれて来る。そしてクリスの記憶の底から繰り返し蘇るハリーと同様、過去に味わいつくすことのなかった新たな「未完の物語」が、思いがけず次の再会へと誘ってくれるにちがいない。それを希望と呼べるのかどうか、私にはわからない。しかし、悲しいことに、人間とは、その程度にはしたたかな存在なのだ、という囁きが心のどこからか聞こえて来る。





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