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「黒い言葉」のあとがき(「未定稿」)

 


 この7月、集英社から『ドストエフスキー 黒い言葉』(集英社新書)を刊行することができた。むろん、ドストエフスキー生誕200年を記念しての出版である。その「あとがき」の一部をここに紹介する。ただし、これは草稿段階のものであり、刊行済みの文章とはかなり違いがあることを付言しておく。

「私たちは、いま、終わりのない不安と恐怖のなかに生きている。終わりが予見できない、ということほどつらく苦しい経験はない。私たちが希望をもって生きていくためには、どのような不安も恐怖もいつかは終わるという保証が不可欠である。だが、その保証は与えられておらず、たんに希望的観測があるだけだ。しかし、いずれこのコロナ禍も、現象としては終息するにちがいない。けれど、コロナ禍が終息した後も、変わることのない不安の檻に取り残されつづける人々がいる。人々は、見捨ての恐怖のなかで、神の不在を思い、運命の過酷さに思いをはせる。他方、彼方に光を見いだした人々は、神の存在を感じ、生命の神秘に感謝を捧げる。人間の生と死をめぐるドラマは、かくもおそろしく不均衡なバランスの上に成り立っている。そもそも「運命の女神」の存在からして、不安定な存在だ。まず、盲の女神は、不安定な球体のうえに立ち、サーカス芸人の綱渡りさながら、左右のバランスをとりながら前に進む。しかしこれこそは、まさに万古不変の人間として生きるということの意味なのかもしれない。

 悲観的な書き出しになってしまった。長く続くコロナ禍のなかで私は多くの時間を、映画や読書に費やしながら、絶えず思いを馳せていたことがある。不幸な時代に生きた不幸な人々、とりわけスターリン時代のラーゲリやナチスの収容所に閉じ込められた罪なき人々の運命に。どれほどの希望を抱こうともけっして許されなかった人々の無念を思い、現にいま自分が生きて、ここにあるという喜びを感じながら、私は祈らざるをえなかった。この世に生きる人々のすべてが、その極限の孤独のなかにあってなお、魂の何たるかを、喜びの何たるかをしっかりと感じとってほしい、と。

 あるとき私はふとドストエフスキーの言葉を思いだした。

「世界が消えてなくなるのと、このお茶が飲めなくなるのとどっちがいい? 答えてやろう、世界なんて消えてなくなったっていい、いつもお茶が飲めさえすりゃね」(『地下室の記録』より)

 何という身勝手なセリフだろうと、多くの読者は思うにちがいない。だが、理解してほしい。カップ一杯の紅茶と地球の重さを対比してみせるというのは、ドストエフスキー一流のレトリックであり、世界の破滅を願う心情とはまったく異っているということ。むしろこの人物は、お茶の習慣と地球の自転がいかに強い糸で結ばれているかを感じ取っていたともいえる。なぜなら、カップ一杯のお茶が飲める幸福と、世界の「平安」はじつは一つのものだから。その意味で、私は、この「地下室人」のヒステリックな豪語にあえて同意する。むしろ、紅茶一杯にそれだけの喜びを経験できる魂の力こそ賞賛されてしかるべきではないだろうか。それこそが生命の輝きというものではないか。

 極限の状況に立たされた人間が生命に望むものは、きわめてささやかなものである。だが、そのささやかなものが見つかりさえすれば、人間は生きていける。だが、人間の生命を過小評価するのは止めよう。あまり自粛的にとらえることもやめよう。最近たまたま手にした一冊の書物に、興味深い一行を見つけた。「人間には幸せになれるゾーンがある」、そのゾーンこそは、自分の運命であり、その運命こそが幸せをもたらすのだ、という(マルクス・ガブリエル『つながりすぎた世界の先に』)。この言葉には、残念ながら、一種の運命論にも似たペシミズムの響きがあり、承服できない。このゾーンを、決して自分の手で狭めてはならない。ドミートリー・カラマーゾフは叫ぶ。「人間というのは広すぎるくらいだ、ちっちゃくしてやりたい』。幸せをもたらす運命のゾーンは、たしかに狭いかもしれない。だが、そのゾーンを広げることができるのは、被造物たる私たち人間の努力のみなのだから。(続く)

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