2020年11月18日 朝日新聞朝刊
■優しさと慈しみ、普遍的な地点へ
米大統領選の行方が気がかりで、数日、眠れない日が続いていた。この日も開演ぎりぎりまで、劇場ロビーの深紅の絨毯(じゅうたん)の上でスマホをにぎり、分水嶺(ぶんすいれい)となるペンシルベニア州の開票速報に目を凝らしていた。
だが、会場に一歩足を踏み入れ、演奏者全員がマスク姿で登場する姿を見て我に返った。新型コロナが跋扈(ばっこ)するなか、この演奏会のために費やされた努力の凄(すさ)まじさが偲(しの)ばれたのだ。
事実、この日の演奏会は、コロナ禍がもたらした様々なハンディゆえに、かつてない高度な内省と、類いまれなレベルでのアンサンブルと輝きを勝ち取っているように思えた。「悲愴(ひそう)」の第1楽章半ば、私の脳裏をふと、「美は世界を救う」というドストエフスキーのひと言がかすめたほどだった。
幕開けは19世紀ロシアの宮廷文化、繊細優美の極みとでもいうべきチャイコフスキー作曲「ロココの主題による変奏曲」。ウィーン・フィルの厚いサポートを得て、チェリストの堤剛は童心に帰ったかのように、片時も集中力を切らすことなく全曲を弾き切った。
続くプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番は20世紀初頭、アバンギャルド芸術の精華ともいうべき難曲だ。ピアニストのデニス・マツーエフは炸裂(さくれつ)せんばかりの打鍵と超絶的な技巧で、19世紀の貴族文化が、近代的知性と反キリスト教的な野蛮な力によって切り裂かれていくさまを浮き彫りにした。
*
楽曲自身も、現代の状況との深い因縁を示唆する。作曲当時、1893年前後のロシアではコレラが二十数万の犠牲者を出した。作曲家自身、初演から9日後にコレラで急死した。
他方、ゲルギエフにとって、ウィーン・フィルと「悲愴」の取り合わせは、これまた格別な意義を帯びている。今から16年前、ゲルギエフの故郷北オセチアで起こったチェチェン独立派によるテロ事件の記憶である。186人の児童を含む約400人が犠牲となり、ゲルギエフ自身も親族を失った。当時ウィーンを訪問中だったゲルギエフは、ウィーン・フィルを相手に、涙ながらに「悲愴」の指揮をしたとされる。
だが、忘れてはならないのは、作曲者がこの音楽に託した思いが、単に「世界苦の精髄」に示されるペシミスティックな世界観や鎮魂の表明だけではないということだ。チャイコフスキーは、まことに生命の人、過剰の人であった。この交響曲の命名にあたり、「悲劇的」という一義的な言葉を避け、「情念(パトス)」を語源とする「悲愴」を選び取ったのも、その生命と過剰さへの執着ゆえだった。
*
ゲルギエフはそのシャイで誠実で繊細なアプローチによって、ロシア的な地平をはるかに突き抜けた、より普遍的な地点で音楽を築こうとした。公演前の取材で語っていた「自然体」が隅々に行きわたり、第3楽章のスケルツォと行進曲でもひたすら「優しさ」が強調されていたように思う。
有名な最終楽章「アダージョ・ラメントーソ(ゆっくりと悲しげに)」も、限りない慈しみの深みにあって、おのずから意味を変えた。曲の終わりがいかに悲痛なピアニシシモで閉じられようと、あくまでそれは、精神と生命力の深さそのものの証しであり、「メメント・モリ(死を忘れるなかれ)」のメッセージさえ招き寄せるものだった。
流麗極まるアンサンブルに心地良く身を委ねていて、私はふと、突拍子もない考えに襲われた。かの国の分断の克服にいま真に必要なのは、この限りなく透徹したリアルな美の共有なのではないか、と。
Comments