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ウクライナ侵攻の衝撃


今回のウクライナ侵攻について、語りうることのすべてはすでに語り尽くされているのだと思う。残されているのは、大団円の光景をどう描くか、という想像力の作業だけなのかもしれない。停戦ないし終戦に導くための筋書きは、これまでもいくつか想定されてきたが、現実はそれらの予測をことごとく裏切ってきた。ただし、メインプロットだけは代えがたいものがあるように見える。それは、ロシアが、最終的に「敗北」を喫するというプロットである。今ここで、ロシアの「敗北」が、具体的に何を意味しているのかと問われるなら、次のように答えよう。ロシア精神の敗北だ、と。もっとも、その敗北は、侵攻が始まるはるか以前から、すなわちソ連崩壊の段階ですでに決定づけられていたというのが正しい。一九九一年の国家崩壊というドラマの最終章が、この同胞殺しにあるということだ。

敗北の光景は、ことによると赤の広場での戦勝パレードの光景として現出するかもしれない。あるいは逆に、ウクライナによるクリミアの完全奪還という形をとるかもしれない。また、最前線における兵士たちの大量投降というシナリオも十分に想定できる。しかし、結果としてどんな筋書きが選ばれ、どんな光景を現出するにせよ、ロシアには、揺るがぬ敗北の証が残る。ネット上に半永久的に記録されつつあるアーカイブ。溢れかえる残虐と破壊の映像は、ロシア精神の皮膚に焼かれたデジタルタトゥーと化して、この先何十年にもわたってロシア人の心を焦がしつづけるにちがいない。

2,24――。

ウクライナ侵攻の報に接し、最初に脳裏をよぎったのが、2月のソチ冬季五輪閉幕とマイダン革命(親露派のヤヌコヴィチ政権を打倒した市民の抗議活動)勃発の日の記憶だった。当時、私はソチの冬季五輪閉会式会場にいた。それから三か月後の八月終わり、東ウクライナで起こったマレーシア航空機撃墜事件を機に、私はウクライナへの旅にでた。それまであまりにロシアに肩入れし過ぎた自分を呪うような思いがあって、少し大げさな物言いになるが、その旅は、一種の禊の旅となるはずだった。今回の侵攻でクローズアップされたキーウ、チョルノービリ、スラヴチチ、チェルニヒウをめぐって再びキーウに戻り、最終日は、市内にあるユダヤ人虐殺の地バビヤールを訪れた。キーウ市内の観光を終えた翌日、チョルノービリに向かったその日の朝、道案内を務めてくれたガイドの二人が、マイダン革命の闘士だったことを知って胸騒ぎがした。案の定、時が経つにつれて、私たちの関係は険悪なものと化していった。折に触れてガイドの口から洩れるロシア憎悪が原因ではなかった。そもそも、私の覚悟が足りなかったのだ。「ロシア病」(内心でそう呼んでいた)から立ち直ることが、想像以上に遠い道のりであることを痛感させられた。思い出すのは、その旅のさなかに垣間見たキーウ市民の落ち着きである。彼らの目は、確実に西側に向いており、東側はもはや眼中にない、という印象を受けた。けっして目の錯覚ではなかった。

顧みるに、ソ連崩壊以後、私は、ロシアとウクライナを明確に意図して切りわけて考えることを怠ってきた。研究の対象が、スターリン時代の文学に移っていたからである。ウクライナ生まれのミハイル・ブルガーコフ、イサーク・バーベリ、ワシーリイ・グロスマンらの作家を、すべてをロシア文学として無差別に受け入れていた。むろんそれが間違っていたとは思わない。

だが、2,24以降、一種の「同胞殺し」の戦いがはじまった。そして私自身の心がその「戦場」と化していた。まさに、二つの価値観の戦いだった。結果として、ロシア文学者としての自己同一性に亀裂が入りはじめた。ひたすらロシア文学、ロシア芸術とともに生きつづけてきた自分に逃げ道はないと感じた。

当初、私がもっとも苦しめられていた問いは、国家はだれのために存在しているのか、という問題である。国家に国家のアイデンティティがあれば、個々の人間には個人として生きる権利がある。私は、露土戦争を経験し、「暴力をもって悪に抗するなかれ」を解いたトルストイに依拠しつつ、戦争の帰趨と関わりなく即時停戦を主張することが文学者としての務めだと考えた。

ところが、日本の言論界やネット上では、即時停戦を唱える人々を親ロ派とみなして、これを排除しようという動きが激化していた。事態解決のためのすべての提案に対し、ナチス同伴者に対するのとほぼ同レベルの罵声が浴びせられた。犠牲者への想像力が研ぎ澄まされている間、プーチンという名の暴力装置は、いっさいの弁解、解説を許さない絶対悪の存在として意味づけられていたのだ。

だが、侵攻開始から三か月が経ち、とくにブッチャでの「虐殺」が明るみに出て以降、そうしたヒステリックな反応だけでは、何の問題解決にもならないとの考えが生まれ、根本原因の追究がちらほら目につくようになった。ケナン、キッシンジャー、ミアハイマー、トッドといった良識派の主張も徐々に知識層に浸透しはじめたようだ。

そこで私自身、今回の侵攻をめぐる言説においては、内部からの目と外部からの目が複雑に絡まりあっていることに気づかされた。内部からの目は、なによりも侵略者の動機解明を通して現象を解明しようとし、外部からの目は、現象を現象として徹底相対化するアプローチによって状況を解明しようとしていた。どちらがよい、悪いの話ではなく、理解のアプローチが互いに相いれないだけの話だったのだ。外部からの目は、しきりに歴史的モデル(ナチスドイツ)とのアナロジーを強調することで徹底抗戦支持の主張を貫こうとしていた。それに対して内部からの目は、ソ連とロシアの歴史の内的プロセスの分析をとおして宥和的な方向性を模索していた。私が、拠り所としたのは、むろん後者だが、即時停戦の主張は、そうしたもろもろの判断を超え、純粋に文学的かつ人道的動機に発するものだった。私の念頭につねにあったのは、ドストエフスキーが『白痴』で書いている死刑寸前に追い込まれた人間の生命の渇望である。しかし同時に、私自身が考える人道主義が、時代全体から乖離しはじめていることも意識しないではいられなかった。

私が次に苦しんだのは、ロシア社会とウクライナ社会における自由の観念の違いである。大差はない、というのが、当初の私の基本的認識だった。ウクライナがかりに早い段階でロシア側の要求を受け入れ、ウクライナ東部の割譲、NATO非加盟、永世中立の道を選んだところで、国民一人一人の生活に大きな違いは生まれない、たんにEU加盟を諦め、ロシアの勢力圏内に留まる決断をしたヤヌコヴィチ政権下のウクライナに戻るだけのことではないか、と。だが、この点についての見立ては、かなり甘かったと言わざるをえない。時とともに「特別軍事作戦」と呼ばれるものの荒唐無稽ぶりが明らかになってきたからだ。では、ロシアの自由とウクライナの自由を根本的に切り分けているものは何か、と考えたときに出てきた一つの結論がある。ウクライナの「ロシア嫌悪」の根底には、近親憎悪とはまったく次元の異なる、より本質的な自由への希求が隠されているような気がした。ウクライナには、プーチンという為政者のもとでは絶対に現実化しえない自由の息吹があった。

では、最終的にこの戦争はどのような決着を見るのだろうか。

少なくともここ数ヶ月の経過を見るかぎり、だれもが書きえなかったプロットが浮上しつつある。戦争である以上は、確実にどちらかの勝利と敗北で終わる。ロシアの完全撤退、ないしプーチン政権の内部崩壊が理想だが、現実はそうは動かない。たとえそう動いても、全面撤退という状況は訪れない。ウクライナの二分割という、これまでの予測の一つに帰着する可能性も大いにある。しかしその時には、第二のマイダン革命が起こるにちがいない。最悪のシナリオは、クリミアが戦場と化すことである。最近、プーチンの側近の一人メドヴェジェフが、かりにウクライナによるクリミア攻撃がなされた場合、「裁きの日が訪れる」と述べ、強烈な反撃があることを示唆した。「裁きの日」には有無を言わさぬ響きがある。言うまでもなく「世界の終末」を意識した言葉だからである。この脅しの重さに匹敵する現実は、一つしかないが、今はそれを口にすることを控えよう。(『東京外語会報』)

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