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チャイコフスキー断想



 19世紀ロシアの音楽シーンを欧米という、より開かれた視点から俯瞰した場合、まっさきに目に飛び込んでくるのが、ピョートル・チャイコフスキーである。現存する全10曲のオペラ、6つの交響曲、三大バレエ曲ほか、協奏曲、室内楽など各ジャンルで質量ともに他を圧する作品を残し、53年のあまりに早すぎる死を遂げた。文字通り、天衣無縫と呼ぶにふさわしい旋律性、絢爛豪華でかつドラマティックな管弦楽法、洗練のきわみをゆく感情表現――チャイコフスキーはまさに、人間の情念を瞬時にして音とリズムの線的構造体へ置きかえることのできる神がかりの天才だった。

 もっとも、そのチャイコフスキーが作曲家としてデビューした時代は、若い才能が必ずしもストレートに受け入れられる環境になく、彼自身、同じ作曲家仲間(「五人組」)と一線を保ちつつ、祖国に背を向けるようにしてキャリアを積み上げていく。モスクワ音楽院の職を辞して作曲に専念しはじめる1878年は、テロル時代の幕開けとして記憶される年にあたり、それから3年後の1881年、ロシア社会は、アレクサンドル二世暗殺をきっかけにいわゆる「停滞」の淵にはまりこんでいった。こうして多くの芸術家は、皇帝権力によるきびしい監視のもと、政治性をできるだけ抑え、徐々にロマンティックな作風へと傾いていった。見のがせないのは、チャイコフスキー晩年の活躍が、皮肉にも、時代の保守化の波を受けて成立している事実である。オペラ好きで知られた新皇帝アレクサンドル三世の覚えもめでたかった。

 さて、作曲家晩年の足どりを探るなかで浮かび上がってくる興味深い事実がある。それは、彼のすさまじい見聞欲である。広く国外で活躍するなかで、当然、交友の輪も広がった。バイロイトでの「ニーベルングの指輪」初演(1886)の際に、R・ワーグナーの知遇を得た。また、ハンブルグ市立歌劇場での『エフゲニー・オネーギン』公演(1892)では、栄えあるプレミエの指揮を若きG・マーラーに委ねている。ベルリン滞在の楽しみの一つが有名な「動物園」であり、竣工したばかりのエッフェル塔に嬉々として上り、カーネギーホールこけら落としのために渡米した際には、はるばるナイアガラの滝を訪ねた。また、南国グルジアへ演奏旅行に出た彼は、途中、お忍びでバクーの油田採掘現場にまで足を延ばしている。私たちが今日、作曲家の肉声に接することができるのは、彼がいち早くエジソンの発明に興味を示したおかげである。

 だが、作曲家のそんな実像を知りつつ、彼の圧倒的ともいうべき音楽に接するたびに、私の脳裏をかすめる疑問がある。時代を超え、世界の至るところで共感を呼びつづける彼の音楽的ルーツとは何なのか、と。周知のように、彼の音楽のいくつかのアイデアはロシア民謡を源泉としている。序曲「1812年」での聖歌やロシア国歌の使用がよい例だし、正教会用聖歌の作曲も彼のロシア的なルーツを裏付ける証の一つだろう。私個人の印象を述べれば、彼の音楽でとくにロシア的と感じさせてくれる作品が、「弦楽セレナード」(1880)である。事実、その最終楽章にはロシア民謡(「青いリンゴの木の下で」)が用いられた。貴族社会のつかのまの華やぎ、広大な大地を吹きかよう風、 晩秋の影をとどめる落日の光、労働を終えて家路につく農民たちの姿――。しかしその一方で、この曲のどこかに、ロシア的という形容ではけっして収まりきらない何かが存在していると感じられる。その「何か」は、はたしてどこに由来するものなのか。

作曲家自身、この曲については、「内的な欲求」にしたがって書いた、「ほんものの威厳をそなえた作品」と自賛し、そこに特別な意味を与えていたことが知られる(メック夫人宛、1880年10月10日付の手紙)。しかし、私がこの音楽に聴くロシア的な何かは、じつはロシア民謡が用いられた第4楽章よりむしろ第1楽章にある。

ここで注意すべき事実を一つ紹介したい。

 作曲家は、この第一楽章をめぐって、メック夫人宛ての別の手紙で「自分のモーツァルト崇拝」を語り、「モーツァルトの模倣」を志したと率直に書いているのである(1881年8月24日)。この時、彼が念頭に置いていたのは、おそらく「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」だと思うが、内面的な深さ、曲想の明暗といった点で、この二つのセレナードが聴き手に与える印象はまるで天と地ほどの開きがある。次元が異なるといってもよい。

たしかに、失われた「懐かしさ」を経験しなおす音楽としてチャイコフスキーのこの曲ほど神がかった旋律はないかもしれない。しかし作曲家自身、すでにロシアという前提ぬきで作曲に取りかかっていたことは明らかであり、その結果として、より普遍的な地平へと、思い切った言い方をすれば、人類的といってよい原風景(「何か」)に辿りつくことができたのだと私は思う。

 さて、チャイコフスキー音楽のもつロシア性に思いをめぐらすとき、もう一つ忘れられない曲がある。オペラ『エフゲニー・オネーギン』の第1幕第2場「手紙の場」である。半世紀近く前、この曲にはじめて接したときの感動は今もって忘れがたいものがあるが、最近では、今年4月、青山で執り行われた故ドナルド・キーン氏の葬儀の際にこの曲に接し、感銘を新たにした。

 国民詩人プーシキンの作品を原作としたこのオペラもまた作曲家が自国の文化をどれほど誇りとし、それを世界文化の一部として位置づけようとしていたかを物語っている。そしてオペラの作曲それ自体が、彼の隠されたイデオロギーの表明だったと見ることもできるのである。思い出してほしいのだが、最晩年ドストエフスキーは「プーシキン演説」(1880)と題する講演を行い、そのなかで、プーシキンこそ、ロシア知識人の病根を暴き、『オネーギン』の主人公タチヤーナにみる(「ロシア女性の頂点」)一連の肯定的タイプを提示したと述べた。作家は、西欧的知性とニヒリズムにとりつかれた革命家たちの末路を予言し、自己犠牲と忍従に生きる女性のたくましさにロシアの未来の光を認めていたのだ。ことによると、同名のオペラを書いた作曲家の本心もまさにそこにあったのではないか。

 ただしここで一つ書き添えなくてはならない。

 チャイコフスキーがいかに天才的な作曲家であったとはいえ、彼の音楽が、つねに万人の心に安らぎやカタルシスを約束しているわけではない。霊感にかられた作曲家は、時として私たち聴き手に背を向け、勝手に一人歩きしていくような印象を与えることがある。私自身の経験として、彼の交響曲に「酔う」というより、むしろ音と情念が織りなすドラマを、静かに固唾を飲んで「見守る」といった場合のほうが多い。この疎外感は、おそらく作曲家自身が、かつて交響曲第5番について語った「何かしら過剰な派手さ、不誠実さ、こしらえもの」と通じあっているように思える。

 交響曲第6番「悲愴」に耳を傾けてみよう。

 私がここに聴くのは、「孤高性」へのひたすらな憧れである。作曲家がこの作品に、「情念」を語源とする「悲愴な」の名を授け、「悲劇的な」を避けたのには理由があった。第6番には、彼が恐れる「過剰な派手さ」や「こしらえもの」の趣きが確実に感じられる。しかし、この時点の彼には、そうしたみずからの芸術の本質そのものをアイロニカルにとらえる必要はさらさらなかった。それどころか、彼は、この第6番を「この上なく誠実な」音楽とまで豪語してみせた。彼は、この言葉によって、むしろ「過剰」であり「こしらえもの」である音楽に自分のすべてを賭けたのだと私は考えている。その自信の背後には、作曲家がその音楽を捧げようとする「孤高の」相手の存在があった(相手は、むろん、フォン・メック夫人ではない)。彼は、その存在の前で徹底して演技することを選んだのだ。さながら道化のように、孤独に。そしてそこから生まれた音楽とは、むろん、彼の「内的な欲求」に発するものであったが、その実、作曲家はたんに神から下賜される旋律を、彫刻家のように純粋に美的な構築物に作り変えようとしたにすぎなかった。六か月という驚くべき作曲期間の短さがその証である。作曲家の真意として、下賜された旋律はすでに生きた感情をもっており、その感情を介して「孤高の」聴き手との間に、知られることのないプラトニックな対話が生まれればよかった。ことによるとそれこそが、彼にとって唯一の愛の表現形式であり(思えば、愛そのものが「孤高」だった)、なおかつそれは、芸術それ自体がはらむ究極の狂気でもあったように思えてならない。

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