私には恩人がいる。
元国際ドストエフスキー学会会長デボラ・マルティンセンがその人だ。彼女の、温かい導きがなければ、私はおそらくは鬱屈を抱えつづけたまま、今なお自尊心のくすぶりに苦しめられていたのではないか。
デボラ(と敢えてそう呼ぶ)との出会いは、二〇一一年の夏、場所は、コロンビア大学内の彼女の執務室。その約一月前、私は、車で東日本大震災の現場を訪ねたばかりだった。一五〇〇キロに及んだ長旅の悲しい余韻も覚めやらぬまま、私は成田を飛びたった。決心は早くから固まっていた。同時多発テロから十年後の二〇一一年九月に、必ずニューヨークを訪れる、それまでに、必ず『悪霊』の翻訳を終える。
理由は簡単だった。
五十代のとば口に立った私が、再びドストエフスキーに回帰するきっかけとなった事件が、この九・一一であり、なおかつ、この九・一一が私のなかに生んだ『悪霊』との連想だったからである。だが、事情で出発は予定より一か月早まり、結局のところ、『悪霊』の翻訳を終えることができたのは、それから数か月後のことだった。
ニューヨーク訪問には、もう一つ、大きな目的があった。国際ドストエフスキー学会(IDS)へのアプローチである。当時私は、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳に投げかけられた批判から半ばノイローゼ状態に陥り、世界の研究者から白眼視されている、との妄想から抜けられなくなっていた。
むろん、私にも多少の自信はあった。支えは、何万人という『カラマーゾフの兄弟』の読者である。感謝の手紙が数多く寄せられるなかで、私がとくにつよい励ましを受けたのは、北海道・網走に住む七十代後半の女性からの手紙で、そこには「人生の終わりに間に合った、こんなに喜ばしいことはない」といった内容が鉛筆書きで綴られていた。
大学の執務室で、デボラは、温かく、冷静に、レスペクトをもって私の話を聞いてくれた。そして、友人とのイタリアンレストランでの会食や、大学に近いカフェで開かれた研究会に誘ってくれた(超短期ながら、英会話スクールの手配までしてくれた)。デボラとの友情は、それから小止みなく続き、二〇一五年の夏、千葉・幕張で行われた「国際学会」での発表の際、彼女は報告原稿のチェックまで引き受けてくれた。タイトルは、「『カラマーゾフの兄弟』における隠された引用」。いささか物思わせぶりなタイトルながら、内容には、自信があった。だが、デボラから返された原稿は至るところ赤線だらけで、ドストエフスキー学の壁の高さとつめの甘さを改めて思い知らされたのだった。
翌日、私は、グラウンドゼロの傍らに立った。タイムズスクエアに近い五十二番街にあるSホテルを出て、フランクリン通りで地下鉄を降りると、地上は、すがすがしい光に満ちていた。二日前にNYを襲った集中豪雨のせいだ。もっとも、私はその段階で、NY到着後の私が、あるパラノイアクな幻影に襲われ続けていることに気づいていた。高層ビル街を歩きながら、ほぼ五分間隔で空を見上げては、二機の旅客機がビルの谷間にのぞく青空を横切るシーンを思い浮かべるのだ。
突貫工事の続くグラウンドゼロから何らかの働きかけを受けることはなかった。過去十年、youtubeの映像を介して、私はすべての驚きを消費しつくしてしまっていたことを知った。むろん東日本大震災の影響もあったはずである。いずれにせよ、ドストエフスキーは正しかった。
「人間は、何ごとにも慣れる存在なのだ」
グラウンドゼロの前で何も感じることのない自分にいらだちながら地下鉄駅に向かう途中、トリビュート・WTC・ビジターセンターという建物の前を通りかかった。刺激に飢えていたのか、私は吸いこまれるようにしてドアをくぐり抜け、受付カウンターの前に立った。数ある展示品のなかで、私がとくに目を奪われたのは、穴のあいたスプーンと五本指のように開ききったフォークのセット。テロリズムが、結果としてここまでアーティスティックな振舞いにまで及ぶなど、だれが想像できたろう。スプーンのへこみに穴を作るほどの繊細さは、もはや悪魔的というしかない。他方、かすかながらも救いを感じることのできた展示品もある。事件当時、ブロンクスに住んでいたサンドラ・ヘルナンデスという女性の残したメモである。
「テレビ画面のなかに飛び込み、飛行機をつかんでストップさせたかった」
これだ、と私は思った。人間が人間である証、それは、まさにテレビ画面に飛び込もうというほどの衝動の強さにある。そして私自身、そうした衝動がわずかながら人より勝っていることを自覚する瞬間がなんどかあった。私がドストエフスキーに向かったのも、きっと私のそんなせっかちな性格が原因だったのだと思う。そしてそんな私の本質を見抜いたデボラがあるとき、こう皮肉っぽく口にしたことのを記憶している。
「あなたは、要するに、ムーヴァー(mover)なのね」
(『ドストエフスキーとの旅』岩波現代文庫、2021年より)
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