ドストエフスキー生誕200年
- IK
- 2023年3月10日
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瓦解と分断を超えて
ドストエフスキー生誕二百年の記念行事が、十一月十一日(新暦)の誕生日に向けて山場を迎えている。サンクトペテルブルグ、 モスクワの大都市を中心に、若きドストエフスキーにとっては思い出のシベリアの地クズネツク等で記念行事が開かれる。三年に一度開かれる国際ドストエフスキー学会は、当初、来年三月の名古屋での開催をめざして準備してきたが、コロナ禍の完全沈静化に期待し、来年八月に延期された。しかしすでに世界各国から百二十名近いエントリーがあり、組織委員会としても嬉しい悲鳴を上げている。状況はまだまだ不透明だが、日々、文学研究は生き残れるのか、との思いに常々、苦しめられている私の胸にぽっと希望の光がともったような気がした。
ドストエフスキー文学への根強い共感は、病める人間の洞察力と人間の生命への絶対性への揺るぎない信念にある。グローバル化時代がもたらした社会の分断によって、二十一世紀は、二百年の空間を飛び越して十九世紀と顔を見合わせ、瓜二つの相貌に気づいたということだろうか。まさに弱肉強食の思想が正当化される時代に生きる人間の叫びである。
晩年の作家は、ロシア社会の混沌を前に絶望の渕にあった。「社会の根幹にひびが入ってしまった。海はかき濁ってしまった。善と悪の(……)境界線が消滅してしまった」
期待された一八六一年の農奴解放の一時のユーフォリアの後に現れたのは、「瓦解」と「分断」について、作家はこう描写する。そしてその混沌のなかで犠牲となったのは、若者たちの世代なのだ。彼らの少なからぬ部分が声なくして滅び、怒りも露わに声を上げたものは、悲惨な末路を覚悟しなければならなかった。若い世代は、時代を超えて確実に傷つくということだ。
ドストエフスキーは、この小説で初めて、作家としてのすべての衒い、気負いを捨て、ロシア社会の混沌の現実を、ひたすら発生状態のカオスとして描き出したのだ。
瓦解と分断、ロシア社会はまさに十字に切り裂かれていました。そのなかで作家が、呼びかけたのは、若い世代の自立であり、キリスト教と「文化」による和解である。だが、迫りくるテロリズムの嵐を何とか食い止めたいと願っても、作家自身の手には、一本のペンがあるだけで、体はすでに病魔に蝕まれていた。だが、それでも希望を失うことなく、最晩年の五年間に二つの大長編を書きあげた。瓦解のドラマは、貴族と農奴との間に生まれた二十歳の青年アルカージーを主人公とする『未成年』において、分断のドラマは、同じく二十歳の青年で修道僧のアレクセイを主人公にした『カラマーゾフの兄弟』において追求された。
作家が、ロシア社会の「瓦解」の最大の原因とみなしたのが、家族の崩壊である。犯罪、飲酒、自殺といった底辺部の悲劇は、何よりも「瓦解」に原因があった。「ロシアは二流国だ、生きるに値しない」としてピストル自殺を遂げる若者、極貧のさなか生活の資を得ようとして凌辱され、首つり自殺する少女。株券偽造に関わる没落貴族の末裔。どこからこの絶望はやって来るのか。その生態を、内側と外側から描き出そうとし、作家は、「偶然の家族」と名付けたのだった。「偶然の家族」とは、人間、家族、社会を一つに結びつける普遍的な理念を失った父親の世代のエゴゆえに、運命のなすがままに放置された子どもたちの世代をいう。しかし、カオスに翻弄されながらも、ついには驚くべき力で自立の道を勝ち取っていく青年の姿を描くことで、ロシアの未来を切り拓く導きの星ともいうべき範を提示した。
他方、分断とその解決のテーマは、書かれることなく終わった『カラマーゾフの兄弟』の続編において追求されるはずだった。対立しあう二つの陣営、すなわち皇帝権力とテロリストたちの和解の物語だが、残念ながら、作家自身は、一切手を付けることのなく命尽き、作家が心から恐れた第二の「父殺し」が現実化する。一八八一年のアレクサンドル二世暗殺である。
ドストエフスキーがその「瓦解」と「分断」からの現実的な力として思い描いていたのは、「文化」の力だった。楽観的過ぎるという向きもあるかもしれない。彼は書いている。
「もしもわが国に、真の、ほんものの文化があったなら、わが国にはいかなる分離現象もまったく生じなかったのではないか」
そしてその「文化」の究極のシンボルとして脳裏に描いていたのが、国民的詩人アレクサンドル・プーシキンである。作家は、彼の存在に、全人類の同胞的融和にとってロシア人の精神性の究極のシンボルとみなしていたのである。「文化」の力は、テロリズムへの対抗勢力として有効に機能すると作家は、あえてドン・キホーテ的に夢を膨らませた。
翻って私たちの現代はどうなのか。社会は二極化を強め、子どもたちは生き急ぐ。高度情報化時代のもとで生命の価値に対する感性と想像力は枯渇してしまった。わが身の安全が最大の関心事と化し、自分を守ることが、最高の美徳とされている。教養は、かぎりなく衰退し、知性ある会話を求めることもない。私が、深く懸念していた文学の死の間近ささえ実感せざるをえない。
そうした状況のなかで迎えたドストエフスキー生誕二百年祭。私のそんな悲観的な思いを覆すようなイベントが、地球の反対側のアルゼンチンにて実現する。先日、アルゼンチンのドストエフスキー協会からメールが届いた。作家の誕生日にあたる十月三十日土曜日の午後一時(モスクワ時間)から、『罪と罰』の全四十一章を四十一人の朗読者が、世界の言語で読み継ぎ、それを、youtube 上で世界に発信するのだという。想定される時間は計二十六時間。その案内を受け、コロナ禍とグローバル化によって分断された世界を精神的に再統合する一つの原理として、新たにドストエフスキーに光が当たりつつある。私はそんな直観をもった。ネット時代、AI時代におけるドストエフスキー受容のこうした展開を、果たしてだれが予測しただろうか。世界の言語は、いま、胸を打ち震わせながらドストエフスキーとの遭遇の期待に胸を震わせているのではないだろうか。

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