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ノスタルジーと鎮魂

  1

今この地球社会に起こりつつある異変は、私

たち一人ひとりの認識と世界観を根本から変え

ようとしている。9.11による不吉な幕開けか

ら十年後、私たちの日本は東日本大震災という

稀有のカタストロフィに襲われ、多くの人命を

失った。そして今、ユーラシア大陸の中心で起

きている「戦争」は、私たちの良識や歴史感覚

を、やはり根本から揺るがし、日常生活の営み

のさまざまな局面で、いや、ひとり一人の芸術

体験においてさえ、良心の試練にかけようとし

ている。端的に、音楽を聴くという行為そのも

のに罪の意識がつきまとうのだ。

  現実の憂いを逃れ、つかのまの憩いを求め

て、『ノスタルジア』と題された一枚のディス

クに耳を傾ける。砲声や悲鳴からはるか遠く離

れ、ここではゆくりなくもきめ細やかな「時」

のはじまりが告げられている。木質の古風な響

きが、憂いの棘を柔らかく包み込んでくれるか

のように感じられる。けれど安らぎの時は長く

つづかず、やがて心の小さな隙間から、痛みの

記憶が少しずつ沁みだしてくる。そんな不安定

な状態で耳を傾けつづけるなかで、別の思いが

ふと頭をよぎった。今、この時、この瞬間、一

人のピアニストの、限りない音への慈しみに私

心なく浸ること以上に、「鎮魂」の名にふさわ

しい行為はあるだろうか、と。

  2

 「ノスタルジア」とは、「故郷(nostos)」

と「痛み(argos)」の二つのギリシャ語ででき

た合成語である。しかしその響きそのものは、

合成語とは思えないほど、私たちが日ごろ経験

する「懐かしさ」の感覚にしっくり溶け込んで

いる。「望郷」「懐古」という言葉を当てはめ

ると、ひどく現実逃避的で、紋切り型の印象を

与えるが、「懐かしさ」の感覚それ自体は、何

かしら「永遠なるもの」への憧れに通じている

ように思える。

懐かしい、遠い記憶の世界が甦ってくる。

私の目の前に、1994年5月のモスクワの

風景が広がる。澄み切った青空のもと吹きかよ


う風はまだ冬の名残りをとどめ、降り注ぐ日差

しのぬくもりが肌に心地よい。国家崩壊からま

だ日も浅く、心の痛手を癒しきれずに人々は春

の訪れを待った。そして五月初め、都心にある

音楽院大ホールは、若いピアニストのデビュー

を期待する聴衆で溢れかえった。その日こそ、

ピアニスト、イリーナ・メジューエワの「誕生

」の日だったのだ。

彼女はいま、どのような思いで、帰らざるあ

の日々を顧みているのだろうか。

感傷を控え、少し冷静に考えてみる。私たち

が単純に「ノスタルジア」と呼ぶこの独特の感

覚には、たんに帰るに帰れない痛みだけでなく

、出自のトポス(すなわち故郷の違い)を越え

た別の痛みもひそんでいるのではないか。それ

は、「エキゾティシズム」という言葉が示す心

象風景ともどこか異なっている。「エキゾティ

シズム」とは、遠くに離れた、あるいは既にこ

の世には存在しない異国の文物に憧れる心象を

言うが、このもう一つの「ノスタルジア」には

、そもそも国境がない。

では、国境や国籍を隔てた音楽、たとえば、

ロシアやドイツの音楽を聴きながら、私たちは

そこに言葉の真の意味での「ノスタルジア」を

経験することができるのだろうか。できる、と

確信をもって答えたい。では、「エキゾティシ

ズム」の経験とそれは果たしてどう異なるのか

。この問いに答えるために、「ノスタルジア」

の定義を少し丁寧に書きかえてみる。

「喪失を前提として魂のうちに宿る痛みの感

覚と美の世界」。

このように定義すれば、ノスタルジーは、「

エキゾティシズム」を越えたより普遍的な現象

をとらえることができる。つまり、人間の心に

とって、帰るべき「故郷」は一つに限らない、

ということがうまく説明できるのだ。たとえば

、小学生時代に聴いたチャイコフスキーの『弦

楽セレナーデ』や、ドヴォルザークの『新世界

』第二楽章「家路」も、幼い心に、国境や国籍

を超えた「痛みの感覚と美の世界」を知らず知

らずに押し開いていたのだと思う。そして今の

私にとって、このドヴォルザークに代わる音楽

は何か、と問われたら、即座にバッハの

「BWV639」と答えようと思う。ドイツの音

楽である。私は、折にふれて、youtubeにアクセ

スし、そこにアップロードされた演奏を介して


各人各様に表現された「ノスタルジア」の美の

世界に浸る。それらは、とり戻せない苦しみ、

嘆き、やるせなさ、運命、諦めの感覚などが一

体となって静かなカタルシス(浄化)が導き出

している。

今回、「ノスタルジア」の名のもとに選ばれ

た音楽は、大きく括れば、スラブ世界に「故郷

」を持っている。恩寵の見えざる手が働いたの

か、ショパンで始まり、平野一郎で閉じられる

曲目の並びが、とてもすばらしい。では、それ

らの音楽を一つずつ彫琢するメジューエワのめ

ざす狙いと何だったのだろうか。私なりに答え

を出せば、過剰な抒情に陥ることなく、音楽の

ドラマを繊細な色合いをもつ音同士の揺らぎと

して浮かび上がらせることだったのだと思う。

思いつくままに、数行程度で印象を書き綴って

みたい。

真珠の輝きなどと形容したら、きっと書き手

の能力を疑う人も出てくるだろうが、ショパン

のマズルカ作品50の冒頭、どことなくエキゾテ

ィックな感じのするメロディと、一つひとつの

音の光沢に、憂いが少しずつ癒されていくのを

感じた。ドヴォルザークの「ユーモレスク

」101-1が民族色の濃い「気慰み」(ユーモレ

スク)なら、有名な101―7に個別の「故郷」の

存在を思い浮かべることは困難である。あまり

に早い時期から親しんできた音楽であるせいで

、固有性が、つまり「故郷」がいつのまにか普

遍化されたということだろう。他方、バルトー

ク「ルーマニア民族舞曲」50ー3は、私たち日

本人の耳に、ノスタルジアとエクゾティズムの

すれすれの境界に花開いた音楽のように響く。

聴き手は気分次第でどちらにでも身を置くこと

ができる。それにしても、ロシアに出自をもつ

スクリャービンの何という優雅なふるまいだろ

うか! 神智学への傾斜が、これほどにもラデ

ィカルに音楽の姿を変えていくものかと感慨を

新たにした。ひと言でいえば、ヴェールをまと

った詩神が、さりげなく一人舞を披露して見せ

るかの趣なのだ。ここでは、メジューエワの神

々しい気品にあふれるフィナーレがすばらしい

。彼女の大得意のレパートリーであるメトネル

については、もはや贅言を要しないだろう。「

おとぎ話」イ短調の印象的なフィナーレでは、


失われた「故郷」を追いもとめる一瞥が、遠い

空のはるか彼方、「永遠」へと向けられている

 4

  この『ノスタルジア』での一番の驚きは、

ディスクの終わり近くに収められたヤナーチェ

ックと平野一郎の作品である。これまで述べて

きた文脈に従うなら、「ノスタルジア」の鎮魂

のドラマへの変容とでも表すべき音楽なのだろ

う。もっとも、鎮魂は、けっして、死という冷

厳な事実におもね、柔和な静けさによってひた

すら魂を慰撫するといった行為を意味しない。

鎮魂の思いは、執念深く生と死のドラマそのも

のの内奥に迫りたいと願う。

ヤナーチェクのピアノ曲集「草陰の小径」は

、幼くして死んだ娘オルガに捧げられた哀悼の

音楽として知られる名作だが、とくに第10曲で

は、オルガの生命(あるいはその記憶)を象徴

するコラール風の輝かしい響きと、死の化身フ

クロウの不気味な羽ばたきが鋭利なコントラス

トをなして反復される。そしてついに、生と死

の平等性ともいうべきペシミスティックな静寂

で曲全体は閉じられる。

平野一郎の「二つの海景」に無心に耳を傾け

ながら、その音の豊饒に心を奪われた。作曲者

の平野は、ブログに「太古から現代に繋がる丹

後の民の精神/風土と、それに連なる信仰行事

と伝承音楽に喚起された」と書いているが、本

ディスク中、もっともエクゾティックと感じた

のが、この二つの音楽だった。第一曲「祈りの

浜」は、夕凪の静けさに包まれた浜辺で、女た

ちが無言の祈りを捧げる荘厳な音の風景。和風

の音階が現れるとはいえ、そこに浮かぶのは、

遠いギリシャの海だ。そして何といっても衝撃

は、終曲「怒れる海民の夜」である。ストラヴ

ィンスキーばりの同一和音による強烈な反復、

荒々しいクラスターによる唐突なフィナーレ。

ロシアの異教世界が、いつしか和太鼓の響きへ

の連想を誘い、太鼓の皮を引き裂く鋭い一撃で

全体が閉じられる。荒神に魂を乗っ取られたか

のようなメジューエワの気迫に圧倒された。大

鷲に姿を変えた平野のミューズが、日本という

ナショナルな土壌を飛びたち、ユーラシア大陸

の空高く雄々しく羽ばたく姿が目に浮かぶよう

である。

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