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ベルトルッチの「父殺し」

 昨年11月、ベルナルド・ベルトルッチがこの世を去りました。享年77歳。奇しくも、1968年の五月革命、いわゆるパリ危機から50年という記憶されるべき年の死です。折からフランス国内では、ガソリン税値上げに端を反する暴動が持ち上がり、50年前の5月を想起した老世代も少なくなかったと思います。さて、今回のワークショップで私は、私自身の青春時代の記憶と深く結びついたベルトルッチの作品のある特質をめぐって、主に「父殺し」という観点から一つの仮説を提示したいと思います。この仮説は、今後、ドストエフスキーにおける「分身」のテーマについて考える際にも、ある程度有効性をもつと考える次第です。

 ベルトルッチは、約半世紀におよぶ活動のなかで、1968年代をテーマとした作品を二つ制作しています。ドストエフスキーの初期の中編『分身』を題材にした『パートナー』(”Partner”; 1968)と、イギリスの作家ギルバート・アデアの小説を題材にした『ドリーマーズ』(“Dreamers”; 2003)です。ただし、今日この短い報告で議論の対象とする作品は、前者の『パートナー』とこの時代の彼のいくつかの作品で、『ドリーマーズ』に関する問題の提示は後の楽しみにしたいと思います。

 さて、『パートナー』は、1968年のローマを舞台に、若い演劇アカデミーの教員ジャコベとその分身、さらには彼のもとで学ぶアカデミーの生徒たちが繰り広げる一種のスラップスティックです。物語の背景として強く意識されているのは、ベトナム戦争であり、映像の随所に、ベトナム反戦運動のモチーフが登場します。

 制作された1968年、ベルトルッチはまだ27歳の若さですが、21歳の年に『殺し(La Commare secca)』(61)でデビューし、次作『革命前夜(Prima della rivoluzione)』を発表後、4年間の長い空白期間を経て、文字通り、満を持して臨んだ作品でした。しかし、興業的に失敗に終わり、日本での公開も遅れに遅れて、制作からじつに45年を経た2013年に渋谷イメージフォーラムでようやく実現の運びとなりました。

 ローマのある演劇アカデミーで、日々、演劇論や俳優術を教える主人公のジャコベ(ジャコベのロシア名は、ヤコフ・ゴリャートキンです)ですが、ある夜、教授の娘クラーラの誕生日の祝いに駆けつけます。しかし彼は、玄関口で門番に押しかえされ、その後首尾よく家に入り込むことに成功したものの、数々の常軌を逸した道化的な振るふるまいが客人たちの怒りを買い、ついに教授宅からつまみ出されます。その夜、ジャコベの前に彼の巨大な影が誕生し、その影をひきずりながら帰宅すると、同じアパートにはすでに、べつの一人のジャコベが待ち構えています。まもなくそのジャコベのもとに思いもがけず、愛するクラーラからラブレターが届き、夢み心地で念願のランデブーを実現するのですが、この羨むべき役割を演じるのが、ジャコベ本人なのか分身なのか、一見しただけでは判別がつきません。

 他方、ジャコベは、世界を劇場に変え、一斉蜂起に向けて学生たちの意識を覚醒させようとするアナーキストの革命家です。舞台上のフットライトを取り払えというメッセージ、舞台と観客の一体化の理念は、ロシア革命の初期にメイエルホリドらによって唱導された「演劇の十月」の理念を踏襲するものです。事実、ジャコベが企図する「革命」のプログラムにおいて、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』のワンシーン「オデッサの階段」が再現されます。しかし、「禁止は禁じられている」「不可は不許可だ」などのアナーキスト的なアピールは、演劇アカデミーの学生たちを揺り動かすことができず、世界の劇場化をめざすジャコベの理想は空回りし、最後は、アパートの窓から飛び降り自殺を図ろうとするところで画面は閉じられます。

 さて、ヨーロッパの映画史のなかでドストエフスキーとの関連からとくに目に引くのが、イタリアのルキノ・ヴィスコンティ(『白夜』;57)と、フランスのロベール・ブレッソン(『白夜』 Quatre nuits d'un rêveur ;71)の二人です。ヴィスコンティのほかにイタリアでは、ヴィットリオ・コッタファーヴィ『虐げられた人々』(58)、『白夜』(62)、ジュリオ・マジャーノ『罪と罰』(63)、サンドロ・ボルチ『カラマーゾフの兄弟』(69)、『悪霊』(72)の名前が知られます。

 原作からのモチーフの借用、引用という点で、ヴィスコンティの場合、「白夜」のほかに、「白痴」に構を得たとされる『若者のすべて(Rocco e i suoi fratelli )』(60)、『悪霊』から一部モチーフを取り込んだ『地獄に堕ちた勇者ども(The Damned / La caduta degli dei )』(69)の2作品が知られます。サンドロ・ボルチの『カラマーゾフの兄弟』は、じつに7時間におよぶ大作ですが、全編youtube でご覧になれますから、イタリア語の得意な方はぜひご覧になるとよいと思います。

 さて、第二次大戦後のイタリア映画におけるドストエフスキー受容については、ステファノ・アローエさんは、第二次世界大戦後の世界に生じたイデオロギー上の二極化が、イタリアの知的土壌にも亀裂を生み、カトリック系の思想家たちは、ドストエフスキーの精神的な原理を強調することで、ソ連に象徴される無神論文化の礎との論争の手段とし、他方、マルクス主義者たちは、同じドストエフスキーに革命の予言者を見出したと述べています。つまり、ドストエフスキー文学とその世界観が、左右両派から受け入れ可能な二重性を帯びた作家として理解されていたということです。

 しかし、文学や映画のジャンルにおけるドストエフスキー理解は、そうした二極化とは裏腹に、きわめてパーソナルかつ多様な理解がなされてきたように思われます。たとえば、ベルトルッチが深く敬愛していたピエール・パオロ・パゾリーニは、15歳の年にドストエフスキーの主だった作品をすべて読み、なかでも『白痴』は、「啓示(revelation)」だったとまで述べています。また、ベルトルッチの代表作の一つ『暗殺の森(”Il Conformista”)』(72)の原作者アルベルト・モラヴィアも、若い時代にドストエフスキーを耽読し、「自分の人生をドストエフキー化した(“I dostoyevkyized my life”)」時期がありました。パゾリーニは、この時期、ソフォクレスの『オィディプス』を原作とした映画『アポロンの地獄(Il Edipo)』(67)を発表し、センセーショナルな話題を呼ぶことになりますが、彼が、「啓示(revelation)」と呼んだ『白痴』の影響は、『テオレマ( “Teorema” )』(68)に見てとることができると思います。

 さて、そうした偉大な先達、偉大な同時代人に囲まれながら、ベルトルッチが一映画人として真の自立をかちとるための最初の試みとした作品が、ドストエフスキーの原作『分身』に想を得た『パートナー』でした。では、作品制作の動機とはどのようなものっだったのでしょうか。ベルトルッチ自身、先のパゾリーニやモラヴィアのように率直に自らのドストエフスキー経験を語っていないため、その動機を正確に押しはかることは困難です。しかし、結論から先にいうと、そこには彼が「わが真実の師(my real Gulu)」と呼んだジャン・リュック・ゴダールへの強烈な対抗意識があったことが明らかです。ベルトルッチが『革命前夜』の制作を終え、『パートナー』に立ち向かうまでの「空白」の4年間、世界の映画界を席巻していたのは、いうまでもなくゴダールでした。そしてベルトルッチ自身が、映画史におけるゴダールの出現を、「イエス・キリスト」の出現になぞらるほど熱狂していたのでした。今日のこの短い報告の結論から入ると、ベルトルッチが『パートナー』に託した狙いとは、端的に「ゴダール殺し」いや「父殺し」の試みだったということです。そしてさらに踏み込んで結論をいえば、その「父殺し」は失敗に終わった、それはある意味で、大いなる「玉砕」でした。「父殺し」の試みは持ち越されて、『パートナー』からさらに二年後に完成された『暗殺の森(Il Conformista)』(72)でついに実現するというのが、今日の報告の筋書きであり、私の仮説なのです。その意味で、『パートナー』は、その実験的な外観をよそに深く自伝的であったということができると思います。

 さて、1931年に、高名な詩人を父として生まれたベルナルド・ベルトルッチは、生涯をとおして父の問題について考えた続けた映画人でした。あるインタビューに答え、彼は次のように述べています。

「フロイド流の分析をもって私は悟ったのです。映画を作ることは、私の父親を殺す私なりの方法なのだと("With Freudian analysis I realised that making movies is my way to kill my father.)」。

 しかし彼のエディプス的「父殺し」の衝動は、けっして生みの父にのみ向けられていたわけではありません。批評家のレオ・ロブソンの印象的な言葉を引きましょう。

「父を殺すか、父にキスをするか、それこそがベルトルッチの映画そして彼の人生の中心をなしていた問題だった(“The question of whether to kill the father or to kiss him is one that is central to Bertolucci’s films, and to his life.”)」

 そしてその彼が、ほかのだれにもまして乗り越えを図りたいと願っていた映画人が、今や栄光の頂点にあるゴダールでした。そのゴダールが享受するあまりにも輝かしい栄光に、憧憬にも似た嫉妬と疎外感に苦しみながら、それこそ「殺意」と「キス」の誘惑にかられつつ、ゴダールは、文字通り、「暗殺者」の気分でこの4年間を過ごしたのでした。

では、ベルトルッチは、具体的にどのような戦略でもって「ゴダール殺し」を図ろうとしたのでしょうか。

 ベルトルッチの戦略の中心にあったのは、第一に「模倣」(imitation)です。ゴダールを模倣することによって、彼は、まずネオリアリズモという分厚い伝統の壁を乗り越えることができました。では、そもそも「模倣」の本質とは何でしょうか? 模倣の行為においては、そこに、オリジナルとコピーの関係が生まれます。それが完全な模倣(コピー)である場合、両者の間に、高さと低さ、重さと軽さ、あるいは支配/被支配の関係は生じません。しかし、人間間において完全なコピーは存在しません。つまり、「戦略」としての模倣は、むしろ相互の「ズレ」の強調から始まるわけです。オリジナルに対するコピーの自立は、どこまでそのズレを拡大できるのか?

 第1の模倣としては、手法上の模倣があります。ゴダールに特徴的な、断片的な映像の使用、縦横無尽な引用、即興性など、いわゆる「シネマ・ヴェリテ」の手法ですね。この点で、ゴダールの一連の作品と『パートナー』の間に大きな違いを見出すことは困難です。

第2の模倣は、「道化性」の自虐的ともいえるほどの強調です。その道化性は、主役のジャコベを演じたピエール・クレメンティの卓越した演技力に支えられています。クレメンティは、彼の二人の師パゾリー二とゴダールがともに登用した俳優でした。同じ俳優の起用も、一種の模倣性の証ととらえてよいでしょう。しかも、ベルトルッチは、かなりの部分に、クレメンティの道化的演技に即興の要素と独白を持ち込みました。しかしこの即興性もまた、ゴダールがデビュー作『勝手にしやがれ』『気ちがいピエロ』で駆使した手法であり、それ自体、目新しいものではありません。唯一救いがあるとすれば、クレメンティの独白の支離滅裂さが、ゴダール以上の不条理性を醸し出している点かもしれません。

 第3の模倣は、その凄まじい暴力性です。これは、原作とも大きく異なる部分です。

『パートナー』のジャコベは、冒頭で、同僚のピアニストを殺害し、中間部では、恋人のクラーラを市電のなかで、ラスト近くでは、洗剤売りの女性も洗濯機の前で絞殺する恐るべき連続殺人魔です。しかもその殺人はきわめてメカニカルに行われ、一切の罪の意識らしきものは介在しません。このジャコベについて、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフを想起したのが、ロシアの研究者リトヴィーンでした。ジャコベの殺人行為には、ほとんど動機付けらしい動機付けが存在していないのです。この暴力性の根拠とは何だったのでしょうか。 

「暴力の正当性」を夢見るジャコベは、ゴダール、ベルトルッチが共通の足場としたアントナン・アルトーの演劇理論「Theater of cruelty」にその理論的根拠を認めていました。ジャコベは、冒頭から、みずからが大のアルトー主義であることを主張し、劇場と世界の一体化という理念を主張します。ジャコベが、ローマのコロッセウム跡に演劇の拠点を置こうとしている点もアルトーの主張通りです。ちなみにジャコベの部屋のドアには、アルトーの肖像写真がイコンのごとくかけられ、同じ部屋で洗剤売り女性の殺害が行われます。彼の殺人行為は、極限まで拡大解釈された「残酷演劇」の演劇なのです。

 しかしこのニヒリスティックな暴力性もまた、ゴダールの模倣を脱却していません。デビュー作『勝手にしやがれ』以来、ゴダールほど殺人と死のモチーフを日常化した映画監督はいないといえるほどですが、殺人は、世界の劇場化においてはじめて法の支配を逃れることができるのです。ベルトルッチにおけるこの暴力性を喚起したゴダールの作品として考えられるのは、おそらく前年に制作された『ウィークエンド』(1967)ですが、もはやこの映画について言及する暇はありません。ちなみに、J・R・マックビーンはこの『ウィークエンド』ついて、「ゴダールによるアルトースタイルのスペクタクル(Godard's Artaud-style spectacle)」(James Roy Macbean)、「自己批判的な残酷映画(cinema of cruelty)」と呼んでいます。ベルトルッチが、『パートナー』を構想する中で、この際限もないスラップスティックをどう咀嚼するか、という難題に晒されたことは容易に想像がつきます。「ゴダール殺し」を図るものに対して、ゴダールは次々とそのハードルを高めていく印象があるのです。27歳のベルトルッチの絶望が推し量れるようです。

 さて、最後の、第4の模倣は、まさに、ドストエフスキーへの着目でした。じつは、ベルトルッチが『パートナー』を発表する前年、ゴダールは、中国の文化大革命に感化された五人の男女の生態を描く『中国女』(Le Chinoes)を発表していました。五人組は、もちろん、ドストエフスキー『悪霊』のモデルとなったネチャーエフ事件(1869)に登場する秘密結社のパロディです。しかも、この五人組の一人に、ソ連要人の暗殺の役を担わされ、自殺するキリーロフという名前の人物まで登場します。ゴダールを「父」と崇めるベルトルッチが、『パートナー』制作にあたってこの『中国女』の存在を意識しなかったということはありえません。まさに、同じドストエフスキーを題材とすることで、彼は、ゴダールと同じ土俵に立ち、「父」の呪縛からの脱出を図ったということができると思います。

 ドストエフスキーの『分身』に着目することで得ることのできた最大の成果は、一種の内的ダイアローグです。ベルトルッチが、ドストエフスキーの『分身』に、時代を超えて映画人を惹きつけるリアルな何かが宿っていると感じたことは十分に考えられます。彼自身、この映画について「統合失調症をめぐる統合失調症的映画」と語ったことがありました。しかしこの恐るべき内的分裂のドラマのうちベルトルッチが見たのは、革命と良心をめぐる根本的な対話でした。ある意味で、ゴダール的な原理とベルトルッチ的な原理の対決といってよいかもしれません。『パートナー』は、編集のプロセスで凄まじい変貌を重ねていったとされています。おそらく着想の段階と完成の段階では、根本的な隔たりが生じたと考えられているのです。ベルトルッチが最初に『分身』に求めた拠り所とは、おそらくバフチンの定義する「奪冠(развенчание)」だったと思います。ドストエフスキーの『分身』には、確実に「奪冠」のドラマが刻印されています。旧ゴリャートキンと新ゴリャートキンは、一時的な融和と一体化の瞬間を生みながら、徐々に全面対立へと向かい、最終的に、旧ゴリャートキンの全面的屈服によって幕となります。他方、ベルトルッチは、そうした「奪冠」によって可能となるドラティックな展開をどこかで諦めたに違いありません。なぜなら、『パートナー』において、新と旧の両者は、むしろ対話的かつ補完的な関係をつよめ、最終的には一種の心中のような形で破局を迎えるからです。これこそは一見、「父殺し」も、「キス」も実現できないベルトルッチの両義的な内面の反映であるかのように見えます。たしかに「父殺し」は成功することがありませんでした。その原因は何よりもベルトルッチを「模倣の欲望(”mimetic desire”)」(ジラール)に求めることがあります。この「模倣の欲望」というスパイラルにかられとられている限り、出口は見えません。では、どのように脱出は可能となるのでしょうか。それこそは欲望との決別です。欲望の決別とは、ほかでもない自壊によってしか可能となりません。『パートナー』のラストの5分間がきわめて鮮烈であり、その決別の可能性を示唆して終わります。なぜなら、『パートナー』では、新ジャコベと旧ジャコベの関係性は反転し、ドストエフスキーの『分身』とはほとんど逆の現象が生じるのです。これを図式化してみましょう。

 旧ジャコベ→新ゴリャートキン→革命派(狂気/殺人?)→演劇アカデミーの講師→ゴダールに心酔するベルトルッチ→ゴダールの面影→自殺

 新ジャコベ→旧ゴリャートキン→保守派(怯懦)→演劇アカデミーで代替講師→根本的変革を望みながら、現状維持を目論むベルトルッチ→ドストエフスキーの面影→自殺?

 しかしベルトルッチの手はゴダールには永遠に届きません。旧ゴリャートキン=旧ジャコベにとって、新ゴリャートキンは永遠に変貌しつづける「分身」なのです。それは、ドストエフスキーの『分身』をみごとになぞっているかのようです。最後の、一種の無理心中をもわせる自殺は、大いなる玉砕であると同時に、自壊でした。真の意味での「父殺し」は持ち越されたのです。いや、『パートナー』とは、むしろゴダールとの決別、ないし「ゴダール殺し」のマニフェストであったということができるのです。新ジャコベは、ひそかにギロチンを用意していました。そして彼は、旧ジャコベに向かって次のように言うのです。

「恐怖を感じていなかったら、ぼくは自分の代わりに君を送ったりしただろうか?」

「もし君がすべてに成功していたら、ぼくは君を殺していただろう、そして君の地位にとって代わっていただろう、それはつまり、自分自身に戻るためだ!」

 要するに、「自分自身」とは何か、ということです。そして新ジャコベが、旧ジャコベの差し伸べる手を振り切るようにして飛び降り自殺を図るとき、その行為こそはまさにゴダールとの決別の宣言以外の何物でもないのです。

 最後に、『暗殺の森』をめぐるエピソードについて言及することで今日の報告を終えることにしましょう。

『パートナー』からさらに4年、アルベルト・モラヴィアの同名の小説をもとにしたこの映画でベルトルッチは、一人の哲学講師マルチェロの矛盾に満ちた内面を描き出しました。彼は、反ファシズム運動の指導者の一人で恩師のクワドリ教授の暗殺に手を貸す人物です。ベルトルッチはあるインタビューで、このマルチェロ青年にみずからを模し、「あれは、ぼくとゴダールをめぐる物語なのです」と半ば冗談めかして語ったことがありました。ここで改めて強調しておきたいのは、『暗殺の森』とは、弱気な「順応主義者」たるベルトルッチ自身によるゴダール殺し、「父殺し」でもあったということです。また、実際にみずからの手を汚すことなく、恩師が確実に暗殺されるのを知りつつもその妻にさえ救いの手を述べようとしないマルチェロは、まさにイワン・カラマーゾフ的な「父殺し」の状況に立っていたという仮説も成り立つのです。翻って『暗殺の森』のパリ初演を観たゴダールは、深夜、ベルトルッチと待ち合わせをし、映画の感想を伝える約束しました。しかし約束の場にやってきたゴダールは、無言のまま、ベルトルッチに一枚のノートをたくしたまま立ち去ったのでした。そのノートには、毛沢東の肖像写真がはさみこまれ、『暗殺の森』をめぐる短い感想が記されていました。

「きみは、個人主義と資本主義と戦わなくてはならない(“You have to fight against individu-alism and capitalism)」

メモを読んだベルトルッチは激怒のあまり、そのメモを揉みくちゃにし、投げ捨てることになります。この激怒はどこから来たのでしょうか。それはほかでもありません。この瞬間、ベルトルッチはまさに「父殺し」を成功を確信する同時に、真の意味での「父殺し」の不可能性を認識していたのです。なぜなら、その後の彼はまさに、みずからの新たな父である「個人主義と資本主義」との大いなる結託のなかで次のステージへと歩みいっていくからです。(未定稿)

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