ヨーロッパ近現代の歴史をひもとくなかで、ひときわその悲惨さで胸に迫るのが、ロシアである。1917年の革命は、喜ばしい成果を生み出すことなく、74年の歴史を閉じた。対ナチスとの戦争では、じつに2700万人が犠牲となった。そして国家崩壊から約20年を経た今なお混迷の淵をさまよい、希望の光を見い出せずにいるというのが現状である。だが、同じ近現代の歴史ながら、ロシア芸術の伝統のみは、他のどの国々にも負けない圧倒的な存在感を放ち、今なお深い感銘を与え続けている。芸術は、ロシアに生きる良識ある人々のアイデンティティそのものといって少しも過言ではない。
そうしたロシア芸術の精華の一つともいうべき美術展「ロマンティック・ロシア」が、愛媛県美術館でオープンした。ロシアが世界に誇るトレチャコフ美術館の名品72点が勢ぞろいするギャラリーの威容に、私は今遠くから思いを馳せている。なかでもとくに鮮烈な印象を呼び起こすのが、イワン・クラムスコイの傑作「忘れえぬ女」――。
19世紀後半のロシアに流行したコートや帽子、手袋、ゴールドのブレスレットで身を固め、謎めいた表情を浮かべるこの女性について、これまでさまざまな伝説が囁かれてきた。ドストエフスキーやトルストイの小説に登場するヒロインから一介の「街の女」に至るまで、伝説の源は何よりもその華美な装いにあった。しかしその真偽はともかく、描かれた女性の深い陰影に富む表情や目頭ににじむ涙に目をやれば、画家クラムスコイがこの女性の運命にいかに深い共感を重ねていたかが理解できる。と同時に、この絵は、私たちがロシア絵画にアプローチする際の一つの理想ともいえる方法をも仄めかしている。そう、「共感」の目と想像力をもって対象に同化するという、ある意味で原始的ともいえる鑑賞法だ。ロシアの人々が、聖像画を「絵画」としてではなく信仰の対象としてとらえ、そこに慈しみの口づけを惜しまないように、私がロシアの絵画に感じとるのは、まさに人間の生命と魂の息づきそのものである。
今回の展覧会では、一に、四季の折々の風景が、二に、貴族から一介の民衆そして無心の幼子にいたる人々の姿が、さらには同じロシアの大地が育んだ人々と夢と誇りが描き出されている。しかし、そこには確実に一つの共通する心性をうかがうことができるように思う。果てしない地平線に向かって馬を走らせる御者、夜の森のベンチに佇むドレス姿の貴族女性、ここに描かれた人々の心に脈打つのは、現状脱出(ここではない、どこかへ)の切なる思いであり、そしてその不可能性の認識である。私はそれを、「タスカー」という言葉で捉える。タスカーとは、「憂い」、あるいは、ふさぎの虫。大地の無限の広がりは、人々にとって必ずしも自由の象徴とはなりえず、時として人々を出口なしの状況に追いやる絶望の象徴に変じる。この出口のない「憂い」をどのようにして跳ね返すのか。その答えを示すのが、展示された72点の一つ一つと言えるだろう。一期一会の出会いのような雨上がりの青空、病み上がりのような柔らかい陽射し、えもいわれぬ空気のぬくもり。ロシアの画家たちが描こうとしたのは、現実と自然に生きる人々の生命の感覚質そのものである。生命のなかにこそ、出口がある。その感覚質に深く同化できたとき、キャンバスを横に切る単調な地平線さえ、私たちの目に限りない自由の象徴へと彩りを変える。
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