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運命論の罠

中村文則『カード師』(『群像』8月号)


 全編をとおしてタナトスが脈うつ。既視感を持たせない作風という点で、中村は、現代日本文学のなかでも稀有な輝きを放つが、世界と人間存在をめぐる問いの「根源」がどこにあるかを、彼は、彼なりの独自のプリズムで探り当ててきた。今回の『カード師』でもまた、私たち読者の意表をつく魅力的な鉱脈を掘り起こした。

  しかし今は、この小説が発想された原点について述べることはしない。運命への挑戦というテーマが生まれた背景には、AIやゲノム科学がもたらした人間理解の変容に対する批判意識があったはずだ。科学万能の浅薄な驕りにたいし、中村が対峙させるのは、不可知論であり、現に歴史上におびただしく溢れかえる悲劇の数々である。悲劇のすべては、つまるところ運命を知ることができないゆえに生じた。中村は、いわばその不可知論を証明すべく、タロット占いとカード賭博の主題に挑み、虚言といかさまによって私たちの実存に新たな息を吹き込もうとする。

カード賭博の前に群がるのは、むろん男女の別なく一攫千金の夢を抱いた猛者ども。しかしその欲望の実現のためのプロセスで、彼らの多くがいかに不条理な選択を強いられ、異常心理に陥ったことか。しかも、主人公の「僕」以外ひとりとして、それらを駆動する欲動がサド=マゾヒズムであることに気づいていない。「僕」によれば、彼らはそもそも「圧倒的なものによって我を忘れ、コントロールされたがっている」人間なのだ。そして彼らは、この「圧倒的なもの」の前で、あたかも虚しい抵抗を試みるかのように多様な貌をさらけだす。自己破滅の欲望にとりつかれる賭博者もあれば、他者の破滅をとことん目で賞味しようという賭博者もいる(「ポーカーの賭博にはマゾ的属性でなく、サド的属性が関係するように思えてならない」)。

物語の冒頭、主人公の「僕」に、ある謎の組織から、「投資会社社長」を名乗る佐藤なる人物にアプローチせよとの要請が舞い込む。いかさま占い師にして裏カジノのディーラーである「僕」に託された狙いは、内部破壊工作にあった。だが、佐藤は、「いかれ」た占い狂という印象と裏腹に、原父的ともいうべき懐の深さを感じさせるカリスマ的人物だった。

「神のみが知る未来の先を知り、神をも出し抜く感覚を味わう瞬間。つまり私が必要としているのは凡庸な占い師ではない。悪魔だよ」

 物語の骨格をなすのは、まさにこの原父的存在である佐藤と、内部破壊工作を委ねられた「僕」の、食うか食われるかの戦いである。物語は、全五部から構成され、それぞれに魅力的なクライマックスが用意されている。第一部で、私たちが大きく目を瞠らされるのは、殺害される前任者の最後の食事の場面だろう。食事の様子を子細に観察する「秘書」の語りのうちに、小説全体の主題が暗示される。すなわち他者の苦しみに対する「黙過」、ないし、主の「僅かな加減」によって生かされている人間の生の不条理という主題。「黙過」は、ここでは、観るという快楽を味わうための、それ自体が目の食事、目の儀式と化している。

第三部、〈クラブ『R』〉〈神〉〈人間達〉の三章にわたって延々と描き継がれるポーカーシーンに圧倒される。この場面の秀逸さは、むろん、ゲーム展開の息もつがさぬドラマティズムにあるが、他方、参加者の一人の急死による唐突なお開きの場面で見せる作家の手さばきも注目に値しよう。そこには、中村の着実な進境を見てとることができる。

さて、『カード師』において常に反復されるモチーフの一つに、運命をめぐる二つの視線の交錯がある。強者と弱者、勝者と敗者が一瞬にして入れ替わる空間において、弱者、敗者への哀れみは、ほとんど何も意味しない。この出口のないカーニバル空間での唯一の勝者は、幸いにして参加を免れたものだけだ。では、タロット占いはどうか。この、占う者と占われる者との対話的な空間で悲劇的なのは、運命の観念に魅入られ、逃れられなくなったパラノイア的人間である。その意味で、王たる佐藤も、道化たる「僕」も、等しくサド=マゾヒズムの傷を負った存在といってよい。

 第四部、佐藤が「遺書」で示したのは、私たちが生きる世界の出来事が、いかに不条理な偶然に左右されてきたか、ということだ。まさに、タロット占い、カード勝負の世界と寸分変わらない。その事実に決定的に傷ついた佐藤だが、その彼が「僕」に差しだした三つの「手記」には、通底する主題があった。それは、いずれも「僕」からポジティブに生きる希望を奪う「黙過」の主題である。佐藤は、この「黙過」の記録と衒学的に戯れ、みずからのペシミズムを癒そうとしていた。だが、その癒しにもかかわらず、彼はついにパラノイア的な視界狭窄へと陥っていく。とはいえ、その佐藤の「遺書」が、戯画的ともいえる偶然の一致やメロドラマ的な要素にもかかわらずわれわれ読者の胸を打つのは、彼の運命論が、まさに私たちの時代の標と化しつつあるからだと思う。

最後に、この小説の「原点」についてひと言書き添えておく。本書を、私はつねにドストエフスキーを念頭に置きながら読み進めてきた。自他ともに認めるドストエフスキーファンの中村なら、必ずや何かを仕掛けてくるにちがいない、と。『カード師』の題名から、当然、『賭博者』が連想された。だが、彼が、インスピレーションの源泉としたのは、『悪霊』以降のドストエフスキーである。主人公の「僕」が好きだという「ヨハネの黙示録」の一節(「唯ぬるきがゆえに、われ汝をわが口より吐きださん」)は、確実に『悪霊』からの濃厚な影響をうかがわせる。しかしとりわけ印象に残るのは、「エピローグ」で悪魔のブエルが、主人公の「僕」に一瞬、襲いかかった死の影を指摘する次のひと言である。

「君は君の周囲の状況の進み方と全く関係なく死ぬところだったんだよ」

敢えて出典は明かさない。ともあれ、運命論の恐るべき誘惑に引き寄せられた人間は、永遠にその罠から抜け出せないかもしれない。かりに抜け出せたとき、彼の前には、どのような世界の眺望が開けているのだろうか。

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