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二重性、または根源の傷


 1  一八五六年、国境警備隊の一兵士として中央アジアの地にあったドストエフスキーは、二人の友人に宛ててこう書いている。  一、「思想は変わりますが、心情は一つのままです」(マイコフ宛)  二、「私は、空想のため、理論のために罰せられたことを承知しております。が、思想、いえ、信念さえも変わり、人間全体も変わるものなのです」(トットレーベン宛)  当時、作家は、僻遠の地で出会ったマリア・イサーエワとの結婚を控えて、現状の打開をはかり、最終的に首都への帰還を実現すべく必死の戦いを続けていた。マイコフ宛ての手紙にある「心情は一つ」とは、むろん、祖国への変わらざる忠義心を言っている。他方、工兵学校時代の友人で今は侍従武官長を勤めるトットレーベン宛ての手紙で彼は、皇帝陛下が下した「罰」は正当であると認め、自らの「転向」と「更生」をアピールしつつ、「軍務を脱するチャンスと文官勤務につく権利」を求めてつよく奔走を迫っている。  周知のとおり、一八四九年四月、作家は、ユートピア的社会主義の啓蒙を旨とするペトラシェフスキーの会での活動が反国家罪にあたるとして逮捕され、同年十二月に死刑宣告を受けた。宣告はただちに撤回されて恩赦となり、新たに四年のシベリア流刑が下されて、シベリアへと旅立った。そしてオムスク監獄での懲役を終えた彼は、次に、中央アジア・セミパラチンスクにある国境警備隊の配属となり、四年間、軍務に服した。  ドストエフスキーが、およそ十年にわたる流刑を終えてトヴェーリにやって来たのが、一八五九年八月、同十二月には、念願のペテルブルグ帰還も許されている。しかし、当然のことながら、元国事犯である作家に対しては、セミパラチンスクを出てからおよそ十八年にわたって秘密警察による監視が続けられることになった。むろん、手紙はすべて、無断で開封されていたと考えられる。  作家が、どの時点で「監視」の事実を知ったか、明らかではない。しかし、つねにその存在を念頭に置いて行動してきたことはまちがいない。他方、監視の目を欺くため、「二重言語」を巧みに駆使することも日常茶飯になったと思われる。その意味でとくに注目を惹くのが、一八六八年三月、作家が、ジュネーヴからマイコフに宛てた次の手紙である。 「小生は、この外国に来て、ロシアのために完全な君主主義者になりました。もし、わが国でだれか何かしたとすれば、それはもちろん、ただ陛下一人です(・・・・・・国民にとって、それは、神秘です、聖物であり、膏塗られたものです)」  まさに、「転向」と「回心」を印象づけるための過剰演技だった。彼が、「監視」の事実を教えてくれた革命家のゲルツェンと会ったのが、この時期のジュネーヴだったことも、この文章にひそむ「二枚舌」の存在を裏付けてくれる。  2  さて、一八五九年のペテルブルグ帰還後、作家が、恐らくもっとも厳しい試練に立たされたのが、一八六六年四月のアレクサンドル二世暗殺未遂事件だった。その報に接した作家の、度を越した狼狽ぶりを同時代人が回想している。では、その狼狽の奥に隠された作家の「心情」とはどのようなものであったのか。今、この問いに深く立ち入るだけの余裕はないが、作家は、確実に、当時執筆中だった『罪と罰』の思想性により右寄りのドライブをかけたと想像することができる。また、六九年にモスクワで起こったネチャーエフ事件をモデルとする『悪霊』の執筆では、『罪と罰』にもまして過激な右寄りのドライブが遂行されたと考えていい。うがった見方をすれば、『悪霊』こそ、皇帝権力による踏み絵を意識した作家の、過剰演技あったということができるだろう。こうして、自らの「転向」と「改心」をアピールし、皇帝権力の信頼を勝ち得ようとする努力は功を奏し、一八七五年、ついに彼に対する監視は解かれることになる(作家がその事実を知ったのは、その五年後のことである)。 だが、ロシア社会全体をとりまく状況は、年を追うごとに悪化の道をたどっていた。元国事犯を意識する作家もまた、想像以上にストレスに苦しめられていたのではないか。彼が、『カラマーゾフの兄弟』を執筆していた一八七〇年代の終わりは、「人民の意志」派による政治テロが日常的に横行する末期的な状況にあった。  当時の作家にとって懸念材料の一つは、アレクサンドル二世との関係である。皇帝の信頼が十分に得られていないとの思いは、たんなる思いこみではなかった。とある事件をきっかけに、それが「事実」として顕在化した。ハルトゥーリンによる冬宮爆破事件(一八八〇年二月)からまもなく、彼は、スラブ慈善協会の総会にて、アレクサンドル二世在位二十五周年を記念する祝辞を朗読し、持論である君主主義の理想を熱く語った。 ところが、皇帝は、ドストエフスキーによるこの祝辞に、ある種の疑いを抱いていたことが明らかになった。妻アンナが書いている。 「大臣の言葉によれば、祝辞をお読みになった陛下は、スラブ慈善協会がニヒリストたちと連帯しているとはまったく思わなかったと仰せられた」 イーゴリ・ヴォルギンによると、この総会で彼が行った演説は、その精神的なラジカリズムの点で政治的ラジカリズムと十分に通じ合うものがあったという。また、席を同じくしたとある有力者もまた、「革命が起こったら、ドストエフスキーは重要な役割を演じるだろう」との一言を残している。 あからさまともいえる帝政賛美にも関わらず、ドストエフスキーは、若い革命家の心をも一定程度とらえていたとみていい。あるいは、作家からの何らかの「サイン」として読み取っていた、という状況も考えられる。 この講演から六日後の二月二十日、「人民の意志」党員ムロジェツキーがロリス=メリコフを襲い、翌日の軍法会議で死刑の判決が下された。さらにその翌日、作家は、この国事犯が、セミョーノフ練兵場で処刑される現場を目撃した。そこは、他でもない、三十年前の彼が死刑宣告を受けた場所である。この時、作家は、何を思い、何を考えたか、そしてそれが、執筆中の『カラマーゾフの兄弟』にどう影響したか、興味尽きないトピックだが、作家の「転向」と「回心」にある種の揺らぎが生じた可能性は大いに考えられる。 この時期、作家は、友人のスヴォーリンにこう告白している。 「二人でダツィアロ書店のウィンドーの前で絵でも見ていたとしよう、と彼(ドストエフスキー――筆者注)が言った。そこへある男がやってきて、一緒に絵を見るようなふりをしている……と、足早に別の男が近づき、『冬宮はもうすぐ爆発だ』。今仕掛けてきた』という話を聞いてしまった。この二人の男が、興奮のあまり大声で喋るのを聞いたとするわけだ。ぼくらは、さあ、どうする? 冬宮へ飛んでいって爆発を防ぐか、それとも警察署なり巡査なりに知らせて捕まえてもらうか? 君ならどうする。 『いやあ、行かないでしょうね・・・・』 『ぼくも行かないだろうな。なぜか。じつに恐ろしいことじゃないか。これは犯罪だよ。ぼくらはもしかすると、警告できたかもしれないのだからね』」。  六十に届こうという老作家の心のなかで、革命家の世代に対する、悲劇的ともいうべきシンパシーが熟しつつあったのだろうか。  一八八一年一月二十八日、ドストエフスキーはこの世を去った。直接の引き金となった肺動脈出血は、同月二十六日未明に起こった。夫人によれば、深夜、床に落ちたペン軸が本棚の下に転がり、それを取りだすために無理して本棚を動かそうとしていたのが原因だという。  ところが、近年、このアンナ夫人の回想にたいして、一部の研究者から疑問の声が上がっている。夫人が残した回想の草稿には、かなり複雑な書き換えのプロセスが見られるというのである(草稿では「本棚」ではなく、「重い椅子を持ち上げた」となっていた)。肺動脈出血という異常な事態を説明するのに、夫人は、かなり腐心したと考えてよい。何より、読者が納得する説明が必要となったということだろう。他方、ヴォルギンは、夫人の回想には、深夜、作家を襲った発作の真の原因が故意に隠されているとし、その事実を明らかにする。  一月二十六日未明、ドストエフスキーと同じアパートの隣室(十一号室)で、警察による家宅捜索が行われた。その目的は、「人民の意志」派のメンバー、バランニコフ某がそこをアジトとしていた事実が判明したためであった。 問題は、壁一枚隔てた向こう側の部屋に、革命家が寝起きしているという事実を、作家はまったく知らなかったか、ということだ。かりに逮捕されたバランニコフが、その自白のなかで、超保守派であり、皇帝の後ろ盾もある作家を隠れ蓑に利用していたことが明らかとなった暁には、彼に降りかかる責任は、どのようなものとなったろうか。端的に、彼(ら)が、「ダツィアロ書店」のエピソードと同じく、作家はけっして密告しないとの読みのもとで、このアジトに寝起きしていたとするなら……作家は、この時点で、「超保守派」の敵どころか、間接的には二重スパイとしての役割を担わされていた可能性も浮上する。 ヴォルギンによると、逮捕されたバランニコフは、取り調べに対し、作家の名前を一切口にしていない。むろん、無用な嫌疑が彼にかかるのを恐れたからと推測される。逆に作家にとって、この家宅捜索は、ほとんど「致命的」ともいうべき衝撃をもたらしたと想像される。何よりも、「人民の意志」派との関係を疑われる恐怖、皇帝の嫌疑は、永遠に晴れないのかもしれないとの不安、他方、自分の内のうちにしぶとく息づく、作家自身さえコントロールできない「二枚舌」の本能……作家は、最終的に、みずからの内面に刻まれた「傷」から逃れるには、もはや死以外にないとの悟りの境地に達していた可能性すら考えられる。 しかし、幸いにして、作家は、自らの恐怖や不安をよそに、ほぼ完璧ともいえる安全地帯にいた。バランニコフの逮捕という事態を迎えるにいたって、皇帝権力は、革命派のアジトが大作家のアパートの隣室であることを知って凝然としたことは疑いない。では、彼らはそこでどう手を打とうとしたのか。 ここからは、完全に空想の領域である。結果として皇帝権力がとろうとした作戦は、文豪の「二枚舌」に目をつぶり、自分たちの陣営に彼をしっかりとつなぎ留めおくことだった。彼は、すでに『カラマーゾフの兄弟』の作者として押しも押される大作家だったから尚更である。彼が、どれほど革命家たちの側に共感を抱きはじめていたとしても、むろんその表明だけは、力づくで抑え込まれねばならなかった。 ・初出:学鐙 2013年秋号 10~13頁 ・参考文献  Волгин И., Последний год Достевсого, АСТ, 2010.

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