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光は闇のなかに輝く ゴーリキーの「プロとコントラ」

かつて人々の心に、20世紀の文字が大いなる希望の光を灯した時代があった。だが、だが、現実の幕開けは、ロシア社会を混沌の渦に巻き込み、人々の期待を裏切った。第一次ロシア革命と、それにつづく日露戦争の勃発である。世紀初頭の希望と失意の間に花開いた文学、それが、リアリズム文学の父と言われ、一斉を風靡したマクシム・ゴーリキーの最初の劇作品「どん底」である。1902年にモスクワ芸術座の舞台にかけられるや、その話題はたちまちにして世界じゅうの演劇ファンの間に広がり、当のゴーリキーさえも怯えさせるものとなった。では、この作品のいったい何が、それほどにも人々の心を魅了したのか?

物語の舞台となる木賃宿は、原始時代の洞窟のようにかすかな光しか通さない。事実、ゴーリキーは、この戯曲のタイトルに悩み、一時は、「太陽もなく」との案が候補に上ったこともある。登場するのは、社会の底辺に吐き捨てられた塵のような有象無象である。ここには、ありとあらゆるタイプの人間が登場する。批評家のベリクの言葉を引用すれば、「目の前で演じられているのは、一種独特のメンデレーエフ的な元素表で、違いは元素が化学的なものではなく、精神的なものだというだけだ」。まさに破滅した人間たちのオンパレード。しかも彼らが経験している貧しさは、かつてドストエフスキーが描き出した「貧しき人々」「虐げられた」に勝るとも劣らないが、ゴーリキーの描く人間たちはよりグロテスクな誇張が施されている。しかし何よりも驚くべきは、彼らの精神的荒廃である。ゴーリキーと比較するとドストエフスキーがいかに人間の誇りというものに信頼の念を置いていたかがわかる。ゴーリキーが描き出したのは、まさにドストエフスキーの手の届かなかった底辺の人たちなのである。

 だが、人間とは習慣の動物であり、けっして絶望しつくす、ということはない。そこに生命がある限り、現状からの脱出という夢はすべての人々の心にしぶとくとどまり続ける。だが、夢が現実に生命のエネルギーの裏付けを持ちえない点に大きな問題があるのだ。

興味深いのは、ここに登場する人物の多くが、かつては成功者として一様に晴れやかな太陽のもとに生きた時代があることだ。だが、運命のむごたらしい力によっていつの間にかこの洞窟の住人となり、徐々に、自分が人間であることを忘れはてていく。彼らの多くはまさにその一部となって、どうあがこうとも離れることができない。彼らは、アルコールやカードに現を抜かすことでありあまる時間をどうにかやりすごさざるをえない。ドラマはこうして、何かしら不条理劇の様相を呈しはじめるが、謎めいた老人ルカの登場を機に、ドラマは一つの思想的な対立軸を築かれていく。それを端的に図式化すれば、次のような問いとなる。

「苦い真実を知るのと、美しい嘘を聞くのとではどちらがよいか?」 

苦い真実を知り、明るい将来のために立ち上がるべきか、宗教が約束する美しい約束の地を夢みて、ひたすら現世の苦しみを堪えるのか。前者を代表するのが、殺人という呪わしい過去を背負うイカサマ師のサーチンであり、彼は、なかば誇大妄想的に「大文字の人間」を歌う(「真実こそが自由人の神なのだ」)。他方、他者への慈しみと、現世における忍従によって来世での幸せをとくルカ老人。死にゆくアンナを慰め、飲酒に溺れる俳優を救おうとするルカは、キリスト教的敬虔と謙抑の伝道者である。だが、この対立が、けっして図式化されていないのは、作者ゴーリキーの徹底して突き放した視線である。木賃宿でのサーチンは、社会主義的な現実変革の力を感じつつ、現実への抵抗として、「無為」を説き、積極的に自己を滅ぼそうとする。いわばチェーホフが得意とした、現実と言葉の落差の犠牲者なのである。他方、「真実の大地」を伝導するルカにしても例外ではない。瀕死の病に伏すアンナにとって来世の喜びなど慰めとはならない。アルコール癖に苦しむ俳優は、ルカが約束した幸せの不可能性に絶望して自殺する。

彼らの対立は、あたかも、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で展開したイワンとアレクセイの「プロとコントラ」を反芻するかのようである。最晩年、帝政ロシアのイデオロギーに傾斜したドストエフスキーは、当然、アレクセイに味方したわけだが、ゴーリキーは、より矛盾に満ちた立場にあって迷いがあった。それは、一方で社会主義の現実的な変革を夢見ながらも、「人間」という可能性がはらむ霊性に目を閉じることができなかったという意味でまさに彼の良心そのものの表明だった。それを示唆するのが、「どん底」後のゴーリキーの世界観の展開である。

「どん底」から三年、1905年の激動を経て、彼はあらたにマルクス主義者としての道を歩み出すが、彼がそこでかかわった運動の名前が建神主義である。1904年の血の日曜日事件、日ロ戦争の勃発によってより一層あらわなものとなる。時代の流れは、まさにサーチンのほうに向かいつつあるかに見えた。だが、ゴーリキーは、マルクス主義の理想につよい共感を示しながらも、なおかつキリスト教的な理想にも惹かれ、新たな思想的立場を表明するにいたる。それこそは建神主義である。それこそは、ルカの信仰をも呑み込むマルクス主義の理念である。

サーチンとルカはけっして対立しあう両極の存在ではない。むしろ補完しあう何かとして、この『どん底』の思想を表明しているのだ。どちらに救いがあるのか。それは時代が、個人が選ぶべき主題なのである。『どん底』が現代において新たな生命力を吹き返すとすれば、それは、たんに二極化した現代との共通性という他人行儀な見方ではない。もっと私たちの心に突き刺さる何かがある。そこでは、冷笑と無慈悲のみが世界のルールとなり、完全に他者への関心を失っているかもしれない。そこからどうやって自分を取りもどすことができるのか。『どん底』の人気は、まさに未来から自分たちを見つめる視線が生み出した恐怖の予感のなかで生きているのだ。

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