ロシアの文豪トルストイの民話『人はなんで生きるか』(1881)を半世紀ぶりに手にした(中村白葉訳、岩波文庫)。一八八一年といえば、同じロシアの文豪ドストエフスキーが急逝し、時の皇帝アレクサンドル二世が暗殺されたロシアの厄年。
日々のパンも尽き、否応なく集金に出向いた靴職人のセミョーン。村人の暮らしは苦しく、思うように取り立ては進まない。帰途、教会堂の傍らに裸のまま蹲るひとりの若者を見かけた彼は、不憫に思い、家に連れて帰る。案の定、素性怪しい若者を冷たく追いかえそうとする妻。だが、夫に諭しに従い、何とか思いとどまる。すると若者の顔に不思議な笑みが広がった。
新たな同居人の健気な働きもあり、一家の暮らしはみるみる上向きはじめた。そんなある日、近隣の「旦那」が高級靴の注文に現れ、居丈高な言葉を浴びせて帰っていく。と、そこでまた若者の顔に笑みが広がった。
何を思ったか、若者が縫おうとしていたのは、革の草履。もはや手遅れと夫婦は慨嘆するが、突然ドアをノックするものがある。主人が急死したので靴の注文はとりやめ、冥途の旅に履かせる草履に替えたいという。
若者の最後の笑みは、セミョーン家に入って五年目、元気な双子の娘を連れた婦人が靴の注文に現れたときのこと。
物語の終わり、若者は「天使」としてのみずからの出自を語る。ある時、産褥にある母親の魂を抜き取れとの神の命令に逆らった彼は、最終的に命令は果たしたものの許されず、罰として三つの問いを課され、地上に送り返された。母親は死に、双子の娘は近隣の母親に委ねられ……。
では、天使の若者が得た答えとは何だったのか。
一、人の心の中には何があるのか。答えは、愛。二、人が与えられていないものとは何か。答えは、知識。三、人は何によって生きるのか。答えは、愛。
死すべきわが身を忘れ、傲りたかぶった「旦那」の死に関わる二番目の問いが重要である。思うに、現代の科学は、ひたすら人間の延命に取り組み、物語でいう「知識」の解明にまい進してきた。ところが、そうした不敵な挑戦を嘲笑うかのごとく、二十一世紀の「神」は、日々人類を翻弄し、中世さながら「死の舞踏」を現出させている。
そんな現代にあって、トルストイが示唆する教えが胸にしみる。ともに愛し合い、傲りを捨て、慈しみ深く生きよ、それこそが生命にいたる道。たとえ信仰を持たぬ身でも、最後の「慈しみ深く」だけは実践できそうな気がする。
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