わが国を代表する作家の一人加賀乙彦の『永遠の都』のロシア語訳が、今年三月にロシアで刊行された。全三巻、日本文学の翻訳史に残る事件である。それを記念する朗読会が、同じ三月に東京で予定されていたが、今回のウィルス禍でやむなく中止となった。そして今、第二波の到来が予感されるなか、オンラインによる上演を企画中である。小説のいわば頂点をなす東京大空襲の場面に主にスポットを当て、配信日も敢えて八月十五日に設定した。
物語は、東京三田に大病院を開く元海軍軍医時田利平の波乱に富んだ人生と、彼の一家を取り囲む人間模様を、二・二六事件から終戦の混乱期いたる約二十年にわたって描きだす。自伝色の濃い作品ながら、作家は敢えて「完全なフィクション」と呼び、「この小説を書くために作家になった」と述懐した。私自身、昨年夏に約ひと月をかけて読み切ったが、その後の虚脱感は凄まじかった。
全八章のなかで、とくに強烈な働きかけを受けたのが、第六章「炎都」。黙示録を思わせる焦熱地獄に、いくつもの愛と欲望のかたちが錯綜する。
桁外れな生命力に持ち主である利平だが、今や七十を迎えて心身ともに衰え、後妻に迎えたいととその愛人の関係に対する疑いから狂気にはまる。そしてその二人の遺体が、大空襲の最中、崩れ落ちる大病院の瓦礫のなかから発見される。大空襲をもっけの幸いと、地下要塞にこもり情痴に耽った二人に、見えざる「運命」の手が伸びた。
「炎都」の章では、この二人の死とは比較にならぬほど深淵な悲しみをそそるもう一つの悲劇が描かれる。利平の長女初江の若い恋人、脇晋助の最期である。西欧の芸術文化に憧れる理想肌の青年が戦地に送られ、そこで地獄を見る。運よく帰国できたものの病院での治療も甲斐なく、最後は「熱帯性皮膚病」で外貌までぼろぼろに蝕みつくされ、自死を選ぶ。病床での叫びが鮮烈に響いた。
「ヴァイオリンは死んだ。音楽も詩も絵も、芸術はみんな……」。
晋助の絶望的な叫びに促されて、私は、われに返った。いま、私たちに襲かかる死の不安のなかで、何よりも恐れるべきことは、芸術を享受する心の余裕を失うことではないか。生命は、それ自体に価値があるのではなく、喜びを経験できてこそ。生涯にわたり、死と死刑の問題に向かいあってきた加賀の文学が、永遠に若さを失うことがないのは、まさに生命と芸術の不滅性という実直な信念にある。
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