二昼夜、一切の仕事をストップさせて集中した。間に二度の睡眠を挟み、移動中も、待ち合わせの時間も、絶えずページをくり続けた。大阪弁のすさまじい毒気に慣れるのに苦労したが、物語の道筋がくっきりと浮かびあがるにつれ、虜になった。興奮は章を追うごとに強まっていった。
テーマは、あえて図式化していうなら、「欠落」とその補償、ダイレクトに言えば、「乳房」と「子ども」の回復。たんに女性性のみならず、現代日本と私たちの生存そのものに関わるきわめてアクチュアルな問題をはらんでいる。
物語は二部構成をとる。第一部は、2008年夏、そして第二部は、2017年夏から19年夏にまたがる二年間。四十代を目前に控え、「自分の子どもに会いたい」との願望にとりつかれた作家夏目夏子の二十年間におよぶ内面の戦いが告白体で描かれる。夏子には、幼い頃に母親に連れられてともに夜逃げした十歳歳上の姉巻子がいる。母そして祖母の相次ぐ死から二人はやがて離れ離れとなり、巻子は大阪・笑橋でスナックを営み、夏子は東京に出て、売れないながらも作家として慎ましい生活を送る……。
第一部では、自閉的傾向のある娘緑子を連れて上京した巻子が、念願の豊胸手術に挑戦するさまがトラジコメディ風に描かれる。胸の「欠落」をめぐる大阪弁の自虐的なかけ合いがずばぬけて面白い。また二人の攻防をひややかに見つめる緑子は、「欠落」を嘆く女たちを相対化する、いわば性なき黄金時代のシンボルともいうべき存在である(「胸がふくらむのが厭」)。
第二部は、それからおよそ十年後の現在。四十代を前に、子どもの「欠落」を意識した夏子は、AID(非配偶者間人工授精)に頼ってでも「欠落」を補いたいと願う。初恋の相手成瀬との間で経験された性的トラウマに苦しむ夏子にとって(「欲求が、まるでない」)、それが唯一の出口なのだ。「興奮と落胆」の間を行きつ戻りつし、小説の執筆もそっちのけでネットを渉猟する日々、夏子はふとしたきっかけから、AIDの出自をもち、AIDに否定的な青年逢沢とその恋人で同じAID出自の善百合子に出会う。他方、「補償」への妄執は、人気作家遊佐リカの挑発(「子どもを作るのに男の性欲にかかわる必要なんかない」)によって一気に弾け、にわかに現実味を帯びはじめる……
豊胸手術にしろ、人工受精にしろ、それ自体、現代にあって決してめずらしいモチーフではない。だが、「欠落」を補うべく猛進する女たちの欲望の即物性が(そしてその動機の曖昧さが)、根源的であるがゆえの凄まじい不条理と滑稽味を誘発する。作者は、そのありようを徹底してシニカルに、かつ強い共感をこめて描き出していく。まさにその絶妙のバランスに、この小説のもつ最大の魅力が隠されている(最後までカズオ・イシグロ『私を離さないで』への連想が頭を去らなかった)。
たしかに、大阪弁と標準語による地の文の、カーニバル的熱気に言及することなくこの小説を語ることは困難だろう。また、心象風景や夢の描写、人間の体と心の動きをめぐる比喩の巧みさも見逃せない魅力の一つである。だが、物語の進行とともに、そうした表現上の問題は二の次にすぎないことが明らかになる。「欠落」のテーマのもつ倫理的問いとイメージの深化が、形式面での魅力をはるかに凌駕していくのだ。その意味でとくに注目したいのが、第一部の終わり「たまご割り」のエピソード。卵黄、卵白まみれとなった幼い緑子こそ、夏子自身のalter ego にして、彼女の内なる倫理性の証ではなかろうか。そしてこの「卵割り」の場面を媒介として、物語は、第二主題へと力強く移行していくのである。果たして、AIDは実現するのか、しないのか?
この小説の魅力をさらに解説するなら、人物配置のバランスの良さと個々の脇役の際立つ個性も見逃せない。姉の巻子はもとより、担当編集者仙川涼子、人気作家の遊佐、元バイト仲間の紺野さん、夏子がひそかに心を寄せる逢沢の恋人善百合子。それぞれが、おのれの孤独を自覚しつつ、与えられた役割をもののみごとに演じていく。夏子への同性愛的な愛情を隠しつつ陰に陽に支える仙川は、どこかモーパッサンを思わせる独特の魅力を放つ。「補償」への妄執にとりつかれた夏子にアンチテーゼを突きつけるAID出自の百合子の主張は、イワン・カラマーゾフの形而上的反抗さえ想起させるものだ。
それにしても、物語に登場する女性たちの圧倒的な存在感にくらべ、男性たちのなんという底の浅さか(夏子が心を寄せる逢沢といえども例外ではない)。精子提供者であるはりぼての悪魔、恩田(「自分のこの抜群にいい精子」)とそのカリカチュア化は、男性性に対する作者の根本的不信を暗示するかのようである。そしてその不信を集約的に体現するのがラスト、夏子の出産の場面ということになる。愛する人との合一を回避し、人工授精による出産の喜びで閉じられる物語など、世界文学のどこを見渡しても見当たらないだろう。
しかしこのラストには、おそらく作者の巧みな計算が隠されている。なぜなら作者は、読者の欲望を完全に読み切った上でこのラストを構築しているからだ。そうした印象は、たんにラストだけにとどまらず、物語全体が、何かしら予定調和的に、すなわち読者の予感を先取りするかたちで進んでいるような印象を受ける。先にも述べたカーニバル熱気と安定感の不思議な同居。これは、むろん、縦横に張りめぐらされた伏線の確かさだけが原因ではないだろう。
そしてもう一つ、物語半ばに、いわば回収されることなく終わる謎のモチーフについても触れておきたい。失意の底にある夏子が、「小学生かと思うくらいの小さな」父とビルの谷間で「再会」する場面だが、これは果たして現実なのか、それとも幻想か? 私はいま、カズオ・イシグロへの連想が頭から去らなかった理由にあわせ、作品全体を読み解くキーの一つとなりそうなこの場面の意味についてあれこれ考えをめぐらせている。
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