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炎熱、痛み、永遠


 暑さにはけっこう強いと自認している、でも、今年の夏は……。

グリーンランドの氷河が分離し、ネアズ海峡を塞ぐ恐れがある、その総量は、マンハッタン島4倍分に匹敵するという。地球はどうなっているのか?地球の脳は、取り返しがつかない打撃を受けてしまったのか。こうした類のニュースに接するたび、地球温暖化のプロセスは、もはや私たちの手ではどうにもコントロールできない地点にまで及んでしまったのではないか、という恐怖にかられる。

暑さについていうと、私にはある「根源的」ともいえる記憶が一つある。1994年8月のアストラハンでのことだ。その年の夏、私は、モスクワの友人たちと列車でカルムイク共和国の首都アストラハンを訪ねた。私が長く研究しつづけたとあるロシア詩人ゆかりの町である。そこに2日ほど過ごしてから、カスピ海の入り江をめざしてヴォルガ下りの旅に出た。

アストラハンは、スイカとキャビアの町。その年、この町の暑さが、例外的ということはなかったと思うが、通りを歩きながら、確実に「暑さ」が何たるかを経験した。文字通り、太陽光線を肌で感じた。ところが、その時、私は心の中で、この痛みにも似た暑さの感覚をふしぎに心地よいと感じたのだ。

もちろん、私はごく当たり前の人間として痛みを嫌っている。これからかりに平均余命をぶじ生きながらえるころができたとして、やはり死の瞬間の苦しみだけは避けたいと思う。ところが、今も時として、痛みや苦しみは、観念の問題だと思うときがある。私の記憶に間違いがなければ、哲学者のマルクス・アウレリウスは、「痛みとは痛みについての観念である」(『自省録』)と書いていたように記憶する。だから、私は、何かが痛いとか、苦しい、と感じるときは、どこかでつねに、これは「観念だ」と思うことにしている。一種の意識の「すり替え」である。しかしそうした「観念」で乗り越えられる痛みなど、ほんものの痛みとは呼べないのではないか……

さて、アストラハンから小型船で40キロほどのデルタ地帯をさかのぼった私たちは、現地で借りた小型のモーターボートに乗りかえ、さらに約20キロ彼方にある「蓮の楽園」カスピ海をめざした。途中、水草がからみつき、ボートは何度もエンストを起こした。やがてヴォルガの流れが完全に制止し、ひざ下の水深にまでなったところでボートから下りた。何という静けさ。宇宙に通じるチャンネルがここにあると、友人が呟くようにいう。そこで私たちは扇のように開いた蓮の葉のすぼみにウオッカを流し、アストラハンから持参したスイカと、蓮の実をつまみに乾杯した。永遠に。

2年半後、この時の思い出を振り返りながら、一瞬凝然としたことがある。ペルーとブラジルの国境沿いを流れるアマゾンのジャングルで、早稲田大学探検部の学生が地元住民によって殺害された事件のニュースに接したときだ。私の脳裏にヴォルガ下りの記憶がまざまざと甦ってきた。いかだでアマゾン下りを試みた2人の学生は、おそらく、ヴォルガ下りをしていた私たちと同様、まさに「永遠」の時に飲みこまれていたにちがいない。では、なぜ、このニュースに接して凝然としたのか。

私たちはその時まで、デルタ地帯を進むモーターボートが故障した場合に生じるリスクを一瞬たりとも顧みることはなかった。むろん携帯電話もなかった。だから、スクリューにからみつく水草が原因で、ことによると、蓮のジャングルで消息を絶つという事態も起こりえたのだ。記憶するかぎり、人一倍臆病だった私が、死に対してあの時ほど無防備であったことは一度もない。

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