無自覚から立ち上がれ
- IK
- 2020年6月26日
- 読了時間: 4分
白く輝く夜の公園に入る。
舞い落ちる花びらをかきわけるようにして息を吸い、息を吐くうちにじわりと不安が湧きおこってきた。吐き出したこの息はどこへ行くのか。
「ブラジルの一匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」。
一般に「バタフライ効果」で知られ、未来の予測がいかに困難かを例えた言葉だが、ここで確実に言えることが一つある。ブラジルの一匹の蝶とは、ほかでもない、今、夜の公園で深呼吸している私、テキサスの竜巻は、今、世界を席捲しているパンデミックの嵐――。
十五の年にドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ。十九世紀ロシアの首都を舞台に、社会悪の根源とみなす高利貸しの老女を殺害し、その腹違いの妹をも道連れにする元大学生の物語である。当時中学生の私は、文字通り、青年にシンクロして、恐怖とスリルを味わった。読書が、現実よりはるかに深い人生経験へ導くことを教えてくれたのはまさにこの小説だった。ただ、青年にとりついた奇怪な選民思想にはつよい違和感を覚えた。世界には天才と凡人がいて、天才は正義のために凡人を殺すことも許されるという。それは変だ、そんな理屈で人を殺せるはずがない。十五歳の少年にもそれなりに冷静な批判的思考が備わっていたらしい。
最近、この青年の「思想」が、この上なくリアルな問題として存在しうることを悟らせる事件に出合った。期せずして同時期に起こった相模原障碍者施設殺傷事件の第一審、パンデミック下の北イタリアで生じた「トリアージュ(患者選別)」の二つ。動機の根本において両者は背を向けあっているが、人間がみずからの判断のもとで他者の生命の選別を行うという点で共通している。生命に貴賤上下の区別はないはずなのに、まさにその普遍的な規範からはみ出す恐るべき事態が生じたのだ。そうした事態の生じる危険性を予見的に察知したドストエフスキーは、小説の主人公が見る夢にまで介入し、メッセージを送り届けた。
「全世界が、ある、恐ろしい、見たことの聞いたこともない疫病の生贄となる運命にあった。疫病は、アジアの奥地からヨーロッパへ広田っていった。……出現したのは新しい寄生虫の一種で、人体にとりつく顕微鏡レベルの微生物だった」
ディテールの出所が知られている。一八六〇年代前半のドイツで、動物の筋肉に入り、人間にも寄生する「微生物」の存在が明らかとなった。話題はやがてロシアにも伝播し、一大パニックを引き起こした。慧眼にもこの事件に着目した作家は、そこに新たな意味づけを施そうとしたのだ。今やこの謎の「微生物」に感染した患者が示す症状は発熱や咳ではない、自分のみが絶対に正しいと信じる恐るべき「傲り」である。そしてその傲りゆえに人類全体が滅びる。作者はそう考えたのだ。
読書は、生涯にわたる心の成長の道標である。『罪と罰』に出会ってから五十五年を経て、ついにこの悪夢に託された意味が明らかとなった。状況はおそろしく悲劇的だ。では、人類を滅亡から免れる手立てを、十九世紀の作家はどう考えていたのか。たんに謙虚であれ、と呼びかけるだけでは空疎なお題目に終わるだろう。最晩年の『カラマーゾフの兄弟』に、かすかながらもそこからの救いを暗示する一行がある。
「もし私自身が正しい人間であったら、私の前に立つ罪人はそもそも存在しなかったかもしれない」
熟読してほしい。ここに記されている「私自身」と「罪人」は、お互いに見ず知らずの他人と考えよう。そのほうがより一層深い洞察に到達できるからだ。
思うにこの言葉は、パンデミック下の私たちが今行動の指針としている規範にも深く通じている。バタフライ効果の比喩を用いるなら、一匹の蝶として自覚のもと、罪の意識で結ばれた大きな共同体に身を置く覚悟が必要だと、作家は言わんとしている。パンデミック下での逸脱は、人間の「傲り」の証である。北イタリアの病院で見捨てられた老人の絶望に思いを馳せながら、私は内心の声に耳を傾ける。
「あの老人を殺したのは、おまえかもしれない」
無自覚から立ち上がれ。だれもがそうした決意をもって立ち上がったとき、人類はこの恐るべきウィルスと「傲り」の息の音を止めることができる。私も一早く夜の公園を立ち去らなくてならない。
Комментарии