今から40年以上も前のこと、正確には、1975年8月中旬の朝。モスクワの都心に近いあるホテルのロビーに据えつけられたテレビで、一人の作曲家の死を知った。大写しされた顔写真を見ながら、私は吐き捨てるような思いでロビーを後にした。「御用作曲家!」
分厚いレンズとむくんだ顔に対する嫌悪感が心のどこかに潜んでいたのか。当時、私はまだ26才。作曲家の名は、ショスタコーヴィチ。21世紀の今日、世界のコンサート会場で、「超」がつくほどの人気を博している大作曲家である。
今年の春、私はそのショスタコーヴィチの足跡をたどる評伝(『ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』)を書きあげ、今なお一種の燃えつき状態のさなかにある。出版の企画それ自体は十年以上も前に遡るが、よもやそれが、作曲家の没年と同じ69歳で実現することになろうとは予想だにしなかった。
本来の専門とは異なるジャンルでの仕事だったため、執筆にはつよいストレスが伴ったが、表紙カバー用の写真選びなど、校了間際となった段階での細々とした作業は、思いのほか楽しかった。「引き裂かれた栄光」という副題のイメージに従えば、それこそ最晩年の、不健康でかつ苦みばしった顔の写真がふさわしかったが、これには営業サイドの判断が優先された。事実、最晩年の作曲家の暮らしは、50代で始まる右手の麻痺が四肢へと広がり、そこに重篤の心臓疾患さらに肺ガンが襲いかかかるなどまさに悲惨の一語に尽きるものだった。今に言う終末期医療の助けを受けて作曲に励むかたわら、相当量のアルコールで痛みを紛らせていたともいわれている。
もっとも、最晩年の彼の異常な老化ぶりは、たんに病とアルコールだけが原因ではなかったと思う。スターリン時代の恐怖とストレスこそ彼の体に老いを刻ませた真の正体だったと私は確信している。評伝を執筆中、そんな天才作曲家の不健康ぶりを傍目に、妙な優越感に浸っている自分が何ともおぞましかった。
しかし、同じ69歳を迎え、今や隠そうにも隠すことができなくなった老いと正直に向きあおうとの覚悟が私のうちにも生まれつつあるらしい。私が現在感じている最大の不安は、過去15年以上も続いている分割睡眠である。遠からず、これが凶と出るのではないかとの怯えがある。二つめの問題は、食事。名古屋と東京の二重生活が始まってから、私は典型的な「コンビニ人間」と化した。名古屋での朝食は、食パン一枚、ジャムひと匙、そしてグラス一杯のミルク。時たま、レトルトパックのスープを口にすることもあるが、回数はけっして多くない。昼は、大学のカフェテラスで、定食、うどん、丼物と、その日の気分に従った食事を選ぶ。しかし「コンビニ人間」たる私の自慢は、何といっても夕食にある。しじみ汁とハムエッグと中粒の納豆の三品で、ライスはやはりレトルトパックで正味半分だけを食べる。準備に十分、食事に五分。時に、ワインを口にすることもあるが、基本は缶ビール一本である。この究極の粗食を、週3日くり返す。
三つめの問題は、運動。毎朝毎晩、お迎えの車があるので、運動不足は避けがたい。しかしこのひと月ばかり、毎朝欠かさず書斎のドアノブを頼りに膝の屈伸運動を実行するようになった。続いて、約5分、通販で買ったごく簡単な器具を用いて腹筋運動をこなす。回数を数えようとすると飽きがくるので、CDの音楽をバックに流す。今は、書きあげた本の復習を兼ねて、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲をメインにしている。体が極端に固いため、たんなる首の上下動を繰り返すだけにすぎないが、それでも多少の効き目はあるらしく、お腹のぜい肉が多少とも目立たなくなった。仕上げは、総計15キロのダンベルである。これを、30回、持ち上げる。
こうして名古屋で、確実に1,5キロは痩せて東京に戻り、東京では、料理自慢の妻が用意した夕食で体重をしっかりもどし、名古屋でまた減量に励む。過去40年、体重は80キロ前後をうろうろしているが、それが瞬間的に77キロ代に突入するとなれば、がぜんダイエット意欲も湧く。ただし、そのときはすでに東京の人というわけだ。
さて、問題の分割睡眠について述べよう。5分間の夕食を終えたあと胃が落ち着くのを待って横になる。就寝時間が8時を過ぎることはめったにない。そして確実に11時前後には目を覚ます。それから朝の4時までが仕事の時間である。ドストエフスキーの小説の翻訳をはじめた頃に定着しはじめたスタイルだが、最近は少しばかり気力が衰え、最後の1時間は映画鑑賞に充てている。この一年、アマゾンプライム、HULU、Netflix等のおかげで、私の映画の知識は以前では考えられなかったほど劇的にレベルアップした。
ちなみに、私には仕事上の原則がある。睡魔とはぜったいに戦わないという原則である。翻訳の仕事は恐ろしくストレスフルで肩も凝るので、休み、休みする。時には30分おきにベッドに横になることもある。このスタイルが結果的に寿命を縮めることになるのではないか、とか、認知症の遠因となりはしないかとの不安が時おり頭をかすめるが、幸い、家系的に認知症との縁は浅いらしく、その分、楽観視している。いずれにせよ、分散睡眠を軸にしたこの生活スタイルで80歳まで健康を保つことができたらしめたものである。何しろ今述べたとおり、私の最高の幸せは、深夜の映画鑑賞にあるのだから。
最後に、老いを意識するにいたったきっかけについて述べておく。
この春、私は、社会に巣立つ千人の卒業生に向かって、「ウォークドントラン」(「走るな、歩け」)を中心のメッセージとする式辞を読みあげた。ショスタコーヴィチの評伝を書きあげたばかりの私の頭に、「急いては事を仕損じる」の戒めがあったことを思い出し、これこそ「贈る言葉」にふさわしいと考えたのだ。
ところが卒業式の翌日、私は不覚にも地下鉄の階段で右足を踏み外した。発車間際の電車に飛び乗ろうとして気が焦ったものの、足が追いつかなかったのである。足首と太ももに激痛が走るのに耐え、這々の体でドアの間をかいくぐった。そのときの私には、両手で吊革にぶら下がり、痛みを緩和しようとするぶざまな姿を思い描くゆとりさえなかった。ああ、全卒業生に先んじて、「ウォークドントラン」の戒めを破ることになろうとは!
右足の痛みから開放されるまでの約二か月間、私は、一時、杖を頼りにし、生まれて初めて車椅子に乗せられる経験までした。右足を庇ううちに左腰に痛みが起こり、靴下もろくに履けなくなった。極端な運動不足がたたって、体重は禁断のラインを大きくオーバーしはじめた。こうして私は、一挙に10才以上も老け込んだような気分になって、自信を失った。そのとき、ふいに私の心の扉を叩いた人と言葉がある。苦みばしった顔のあのショスタコーヴィチと、「急いては事を仕損じる」の諺である。彼の69歳の苦しみに同化できないばかりか、ひそかな優越感に浸っていた自分に、彼の評伝を書く資格などあるのか、私のショスタコーヴィチ論は、もっと根本的な部分から書き改める必要があるのではないか。自嘲と自己不信は、今もって留まるところをしらない勢いである。
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