平野啓一郎『本心』(書評、『新潮』7月号)
シングリャリティ(特異点)の速やかな訪れを想定しつつ、現代の文学やアートは新たなテーマの模索にいとまがない。AIと人間の関係性の網目がどう変化していくか、それをどう描くかは、想像力とアイデアの勝負といった観がなきにしもあらずだが、文学には、文学の使命がある。デジタル革命の未来を、たんなる新奇な驚きの光景として描こうとするのであれば、もはや文字という媒体にこだわる理由はない。SF映画の領域における先駆的な試みの例として、今は、S・キューブリックの遺志を継いだS・スピルバーグの『AI』(二〇〇一)を挙げておく。まさに、AI時代の幕開けをことほぐ名画であり(少なくとも私はそう思う)、そこに描かれた母子愛の永遠性という主題には、優れて文学的と表することのできるパトスが充満している。
平野啓一郎が新作『本心』で描きだした時代と主な舞台は、二〇四〇年の東京。日本は、まさにAI革命の途上にある。物語の随所に、私たち読者にとっては見慣れた「近過去」が現出し、AI革命の先端性のイメージと現在と地続きの日常性の同居に、読者は不安な気分に陥れられる。敢えて今との差異を探れば、より絶望的なかたちで露出した二極化社会の光景、その二極間を自由に往復するVF(ヴァーチャル・フィギュア)とRA(リアル・アバター)の広範な普及がある。本書のテーマのコアをなす「自由死」の問題も、おそらくは新しい時代の刻印と呼ぶことができるだろう。
思うに、AIを基軸とした文学的テーマがめざすことができる問いは、きわめて限定的である。すなわち、そもそも人間とはどのような存在なのか。人間がいまここにある目的とは何なのか? もっとも、本作のもつ魅力と凄みは、そうした問いへの肉薄とはべつの、いわば物語のテクスチャーそのものに宿っている。近未来の時代感覚にリアルさを与えるメタファーの数々は、多くの読者を心地よい驚きで密にちがいない。
物語は、凄絶な悲劇的予感ではじまり、かすかながらも希望の光に包まれて閉じられる。RAを生業とする二十九歳の青年石川朔也は、母の死後、その孤独を癒そうとしてそのVFの制作を依頼する。亡き母のライフログをくまなく学習したAIが、「思いがけない真相」を明らかにしてくれるのではないか、との期待もあった。制作されたVFの母との、ヘッドセットを通しての「共同生活」は、はじめは微妙な違和感を生みだすものの、AIの学習が深まるにつれ、徐々に馴化へと、より複雑な内的対話へと向かう。VFとして進化し続ける母と過去の記憶にとらわれる朔也とのやりとりは巧緻をきわめ、スリリングな妙味さえあふれる。
当初は、母のぬくもりを得ることが目的だったVFの制作だったが、その馴化のプロセスで朔也のうちに二つの疑問が浮上してくる。現実の死に先立つ九年前、母親がふいにもらした「自由死」への願望の動機とは何だったのか。二〇一一年の大震災の混乱のさなかに生まれた彼自身の父親とはだれなのか。正答なき起源への問いの不毛さを自覚しつつ(相手は何といってもVFなのだ)、朔也は、母のライフログに記された人々との出会いを通して徐々にその「真相」に迫っていく……。
思うに、平野は、《起源》の不条理というテーマに深く魅了された作家である。他方、古代ギリシャ悲劇に描かれる「認知」(アナグノーリシス)の悲劇も彼の好奇心を虜にしてやむことがない。その双方に共通して脈打っているのは、「父の不在」によってもたらされた「見捨て」の恐怖である。それはおのずと、過剰な母性回帰と、過剰な母の永遠化と結びつき、子をしてますます現実からの孤立へと追いやっていく。いや、「見捨て」の恐怖から逃走し続けるかぎり、子は一方的に生の欲動を枯らすばかりだ。朔也が、RAの仕事に没頭できるのも、じつは他者が、母性という甘美な全体性の一部として認識されているからではないだろうか(「現在を生きながら、同時に過去を生きることは、どうしてこれほど甘美なのだろうか」)。
そんな朔也の日常に、二つの事件が凶器となって襲いかかる。極上メロンの購入を依頼してきた悪辣な四人組と、東南アジア系の若いコンビニ店員に暴力的な差別発言を吐きかける「五十がらみの」の男とのいざこざだ。朔也は、その両者にたいし、過去の自分に覚えのない憎悪と殺意を抱く。この感情が、彼の母性回帰とどう関わるのか。自己閉塞的なもので終わるか、あるいは新たな自立と再生のきっかけとなるのか(「母のいない世界で、なぜ法律を守らなければならないのだろうか」)、まさにここが物語全体の分岐点となる。
その分岐点に、奇跡的に生じるのが、VFアプリ『縁起』を媒介とした宇宙との遭遇である。一三七憶年の彼方から、遠い何憶年の未来を、ダークマターに満たされた「僕」が浮遊する(「ぼくは、という主語は、宇宙は、という主語と差し替えても構わないように感じた」)。翻って、この『縁起』体験が、一種のイニシエーションの役割を果たし、善悪の消滅というニヒリズムの発見と同時に(「真っ当に生きようと、罪を犯そうと、それが一体、何だというのだろう?」)、すべての生命の永遠性という認識へ朔也を至らしめる(「僕という存在のこの意識に、愛おしさを感じた」)。
朔也が突きとめたいと願った母親の「自由死」の真意は、最後まで解き明かされることがない。むろん、それは朔也の将来を案じた母の自己犠牲の思いとも、あるいは母自身の、子からの自立への欲求とも、あるいはことによると、「見捨て」の婉曲な告白ともとれる。その動機の曖昧さゆえに、朔也の悲劇性は、よりいっそう際立つことになるが、たとえ「回答」が得られたところで、それは、結局、高度に学習したAIの解釈、ないしは朔也自身の迷いそのものの反映にすぎない。今、朔也に求められているのは、問いかけそのものの不毛性に気づくこと、そして母性回帰からの、そしてVF依存からの真の自立である。生命の根源につながる確実なぬくもりは、VFの「こちら」側に存在する。
さて、ここまで来て、ふと気づくことがある。『本心』には、AIが加速させる時代の矛盾に対する警告の意味があるのではないか、と。七十歳の若さにして母が遺した「もう十分」のひと言は、シンギュラリティ以降、疑似無限の「生命」に対する、生命それ自体のプロテストと見ることが可能である。このひと言は、それこそリアルな二十年後の未来に、予言的な重さを開示するにちがいない。
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